松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

雑誌文藝 特集 韓国・フェミニズム・日本

去年の秋に出た、雑誌文藝の特集「韓国・フェミニズム・日本」短編を少しだけ読んでみた。

韓国人作家の紹介だけでなく日本人作家と半々になっている。日本人作家には、日本人の韓国認識の歪み、不思議さの底部を問おうとする作品が多い。さすが文学者。

2つの短編をとりあげ断片的感想を書いておこう。悪文なので書き直せれば削除する。
西加奈子「韓国人の女の子」
「だからアメリカの傀儡政権だった韓国ではなく、朝鮮籍を選んだ。それはすなわち北朝鮮籍なのだけど」というのは、誤りであり、激しく糾弾される可能性がある言葉使いだ。西はそのような政治的葛藤とは別のレベルに、朝鮮戦争の傷などどこにもないはずのおしゃれな現代青少年の実存の底になお、(北)朝鮮/韓国/日本という亀裂が存在する(発見されることがある)ことを描いた。

 

高山羽根子「名前を忘れた人のこと」
韓国人かどうかはっきりしないあるアーティストが「私はtorture を受けたことがある」とふとつぶやいた。torture は拷問という意味らしい。1980年代くらいの時期であるなら(作中に表題が引かれているタクシー運転手や弁護人の時期なら)、その韓国軍事政権による拷問だろう。「たんに無知だったからだ。自分が彼の加害者である、あるいは加害者の集団に属している可能性をもったまま」云々というのは、まあ「考えすぎ」である。
無知:「表面上は無実に思える弱さと無知とわずかのやさしさ」で成り立っている「知らないでいようとすること」。政治的責任追求とは別のレベルで、かすかな文学的糾弾がなされる。
わたしのように、従軍慰安婦などに興味を持ち続けてきた人でも、光州事件(民衆抗争)以降の民主化運動からろうそく革命まで激動の歴史を深く知ろうとしてこなかった。それが何故だったのかはこれから問われる必要がある。全面的に嫌韓派に影響されたマスコミとネット情勢に抗するという課題とともに。

(いったん公開するが、さすがにこれは書き直そう)