松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

普通・無知であること

ところで私はずっと、twitterなどで、ネトウヨネット右翼)という人々と「論争」しています。彼らはおかしなことに必ず、「右でも左でもない」「ふつう」と名乗りたがるのです。
このことについて、次のようにツイートしてみました。


日本人は「普通・無知であることは、右や左の知識人より偉い」という強固な思想があるようだ。これは本居宣長から小林秀雄吉本隆明まで流れている。
あるいは、ブッダから千葉雅也まで。
3000年の歴史があるから、洗練されているし、無敵。問題は無敵すぎて馬鹿がふりまわすこと。


これに関連して、とても重要であると思うのは、紹介された梶山本(『空の論理「中観」―仏教の思想』)に次のようなところがあったことです。
「愛着と怒りと愚かさを離れるからこそ解脱がある、というシャーリプトラの考えに対して、天女は、愛着と怒りと愚かさとを離れて解脱するというのは、慢心のあるものに対して説かれたのです、慢心のないものにとっては、愛着と怒りと愚かさの本性がそのまま解脱なのです、と説く。維摩経
「愛着と怒りと愚かさを離れる」という仏教の教義に対して、それに囚われること、それに自己が価値を見出して固定的な尺度として他人に要求することを、維摩という人が厳しく批判したわけですね。非常にらんぼうな感想ですが、「本居宣長から小林秀雄吉本隆明まであるいは、ブッダから千葉雅也まで」言っていることはこれに共通するような気がしました。正論を批判することの方が、インテリの一部ではむしろ主流になっている。


しかし実際には人間である以上まったく「慢心のない」ということはありえない。「愛着と怒りと愚かさ」の即自性を肯定すると、強者の抑圧構造を批判しない結果になる。現在の日本社会は、リベラリズムとマルクシズムの退潮後、ネオリベとポモの蔓延により、批判が消えている状態、ではないか。
というような感想です。