松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

趙寛子の徐京植批判

シノドスに、「在日朝鮮人の「民族解放論」はアジアに平和をもたらすのか?
趙寛子 / 東北アジア研究(翻訳:李順愛) 」という文章が載っていた。徐京植氏批判のようだ。
http://synodos.jp/international/18637

野原的に偏向したマトメを下記に記す。


1990年代中盤ごろ、コリアン・ディアスポラの世界的連帯の可能性に対して、徐京植は「すべての移住民の歴史を植民地という起源に束ね、「全体民族国家」の建設がコリアン・ディアスポラの政治的主権を回復する道である」という論を立てた。
しかし、「植民地である祖国からの追放」という起源神話を鋳造し、「継続する植民地主義」に対する批判の原理を掲げ〈幻の全体朝鮮〉に忠実であろうとする志向よりも、在日朝鮮人においても(在日年数が重なるにつれて)、日本におけるマイノリティとして自己利益とアイデンティティを求める志向が強くなる。
徐京植は、近年やっとマイノリティという言葉だけは使用するようになったが、文京洙などの「市民社会論的在日論」批判など、原理主義的立場は崩していない。
彼は自己を「難民・半難民」とアイデンティファイしながら、「その難民論においては、同時代の脱北難民というアクチュアルな問題は提起されたことがない。」
朝鮮半島の統一は依然としてすべてのコリアンの願いであるだろう。」しかし、それは「統一の可能性は「反米」にあるという主張に賛成したり、「統一のその日」のために北朝鮮住民が世襲体制下で飢餓に耐えて国家動員にさいなまれる状況」を持続させることに目をつぶる理由になってはならないはずだ。
「「北朝鮮」を見えないようにして「全体民族」に引き入れ、北朝鮮問題に対して言及しない態度は、韓国の民主化および統一運動に関与した在日朝鮮人に一貫して現れている。」
「全体としての民族と統一の課題を論じること」は南北対立の回避として正しいが、「北朝鮮に対して批判的に距離をおくのではなく、北朝鮮問題を「封印」する態度で一貫」することは、やはり理念的偏向と名指されるべきであろう。


「歴史的な不幸を反復しないようにという植民地主義批判の言説」の正しさが、かえって「複雑な関係性を多角度から把握する」ことの失敗につながり、若い世代の「韓日間の敵対性の高潮」につながっていったとすれば、不幸なことだ。


「日本国家の道義的責任を受け入れ和解の道を開こうという朴裕河には、植民地主義の歴史的被害者から顔をそむけ、和解という名の普遍主義の暴力を強要していると批判する。」私は朴裕河には批判的なのでこれでもいいかも、と思うが。
それ以外のところはすべて、趙寛子の論旨に賛成だ。


難民、つまりこの場合、脱北者の問題は、親北か反北か植民地主義か云々といった政治的な問題ではない。もっとどろくさい単なる生活、5万円の家賃をどうやって払おうかという問題。徐京植シンパや良心的左翼にこそ見て欲しい! 「脱北者、おおさか八尾に生きて」 2011年 関テレ.
http://channel.pandora.tv/channel/video.ptv?ch_userid=fafefa&prgid=42348262&ref=ts