楠公を殺せしものの子孫

古賀さんの本*1を今日、図書館に返さないといけない。
とりあえず、断片的なメモを。


(1)
・・・・しかしながら今日においては。南都の僧兵が神輿を奉じて押し寄せたる如く、『国体論』の背後に陰れて迫害の刃を揮ひ讒誣の矢を放つことは政府の卑劣なる者と怯懦なる学者の唯一の兵学として執りつゝある手段なり。しかして往年山僧の神輿に対して警固の武士が叩頭礼拝して慰諭せる如く、『国体論』の神輿を望みてはいかなる主義も学説もただ回避を事とするの状態なり。然れば今、吾人がこの神輿の前に身を挺して一矢を番へんとする者、あるいは以て冒険なりとすべし。しかしながら吾人は平安にこの任務に服せんとする者なり。
何となれば僧兵の神輿中に未だかって神罰を加ふべき真の神の在りしことなきが如く、『国体論』の神輿中に安置して、触るゝものは不敬漢なりと声言せら 国体論中の『天皇』は迷信の捏造による土偶にして天皇に非らずれつゝあるは、実は天皇に非らずして彼等山僧等の迷信によりてほしいままに作りし土偶なればなり。・・・・p210


「国体論及び」で一番有名な箇所ともいえる「神輿のなかの木偶」。
天皇は神の子孫であり、史上一貫して日本の統治者であり、その天皇の赤子である国民は天皇に対して忠誠を励んできたという、いわゆる「万国無比」の国体、つまりは教育勅語に象徴されるイデオロギーに対する最も大胆な批判だった。」と古賀氏:p153


これでもかとばかりの大げさなレトリックとともにくりだされる過激な国体論批判。数日間とはいえ発禁にならなかったのが信じられない。
年表を確認すると、
1891年:内村鑑三不敬事件。
1905年:日露講和、日比谷焼き討ち。
1906年:「国体論及び純正社会主義」出版。
1910年:大逆事件となる。
大逆事件の前後で、「国体論」の国民に対するあり方は変わったと考えられる。つまり「以前」は、北の攻撃する「国体論」は小学校教育と一部の学者の学説において盛んだったが、一般の人民の思想を直接制限するまでに至っていなかった、と考えられる。(ここでは内村は例外と考えておく。)


1905年1月血の日曜日事件に続くロシアの動乱、辛亥革命、1917年ロシア革命に至る「革命」へのうねりは日本にも潜在していたから、それに対する反動として大逆事件が起こった、と理解すべきなのかもしれない。


北におけるこの思想は、1903年「国民対皇室の歴史的考察」で次のように書いたことにはじまる。
・・・・久しく専横を恣にせし蘇我を斃(たお)したる鎌足の子孫は更に蘇我の其れを繰り返したるに非ずや…… 吾人の祖先は渾べて『乱臣』『賊子』なりき。・・・・


これは、内村鑑三の「時勢の観察」1896年に大きく影響されている、と古賀氏は言う。(たぶん新発見)
・・・然れども過去八百年間の日本歴史は、王朝衰退、武臣跋扈の歴史ならずして何ぞや……
楠公の名を繰り返すを以って宗教的義務の如くに信ずる今日の日本人の多くは、楠公を殺せしものの子孫なるものを記憶せよ…・・・ (古賀書 p157)


さて、私が面白いと思ったのはここの文章。
上の文章の調子の強さは、「イエスの名を繰り返すを以って宗教的義務の如くに信ずる今日の人間の多くは、イエスを殺せしものの子孫なるものを記憶せよ。」という文章から来ているのではないか。


キリスト教において〈原罪〉はまさに、祖先が実際に他ならぬイエスを殺してしまったことにおいて確認されているわけです。(キリスト教徒はそういう考え方をしないようだが)(第二次大戦当時のいわゆるホロコーストはそれのさらなる再演ということになるでしょうか。)
つまり「イエスの名を繰り返すを以って宗教的義務の如くに信ずる今日の人間の多くは、イエスを殺せしものの子孫なるものを記憶せよ。」は、原罪の教義を強く現在に押し付ける考え方です。意味をそのまま受け取るのは常人には難しいことは確かですが。
そのフレーズ*2を、日本史に内村が流用した。でそれをまともに受け入れて、少年一輝は、大著を書き上げてしまったと。(そんな話でもないでしょうが。)

*1:

北一輝: 革命思想として読む

北一輝: 革命思想として読む

*2:そんなことを言っている人は誰もいないのか?