中国という国は鍛えられて鋼になる

譚璐美 さんの本『「天安門」十年の夢』読了した。1999年の本。図書館から借りて。*1 うーん。
たいへん興味深い話がたくさんあった。しかし、読後感は良くない。


柴玲を主題にした最後の文章で彼女は言う。
「かわいそうな人。二十三歳のときのことを一生ひきずっていくなんて、ほんとうにかわいそうな人。救ってあげたいのに、あなたをほんとうに救ってあげたいのに。あなたは「ご無用」だと言う。救ってあげられなくて、ごめんなさい。
 私のかわいそうな人。もうお別れです。」p258
常に冷静に相手との距離を見失わないのは二流のジャーナリストに過ぎない。一流のジャーナリストは、相手に過剰に踏み込みあるいは過剰に批判することをためらわない、これという時には。しかしこの文章の譚璐美はそれとは違う。
最悪である。彼女自身が批判する柴玲の欠点(思い入れが強すぎて自己陶酔してしまっている p218)に感染してしまっている。
なぜそんなことになったのか。
彼女には天安門事件に不可避的に関わっていかざるを得なかった若者たちの情熱が理解できていない。それが理解できないままに、彼らが亡命し一時的にちやほやされる中で自己を見失い仲間内の権力闘争などに身を持ち崩す有様を、見続けてしまった。
栄光と悲惨。彼女は栄光を理解しないままに、悲惨だけを理解してしまった。それにより彼女は栄光とは何かをまったく誤解してしまった。そう、西欧のメディアやシンパたちにちやほやされることが栄光だと。そしてその誤解は天安門の激動自体に及ぶ。ただの勘違いによる熱狂と権力闘争だと。


岳武という労働者出身の亡命者は言う。

いや、民主化運動に参加できたことは、幸運だった。僕の人生であれほど魂を揺さぶられ、感涙にむせんだ出来事はなかったし、献身の精神をいかせたことは、この上ない喜びだ。だが非常に大きな悔いが残った。大きな民主化のうねりが成就せず、むざむざ棒に振ってしまったのだから。しかも弾圧で死んだのは労働者がもっとも多かった。学生や知識人は数えるほどで、ましてやリーダーで死んだ者は皆無だ。身体を張って砲弾の前に立った人たちは学生リーダーを守るためにやったのに、救われた学生リーダーは亡命して腐敗にまみれ、堕落した。


亡命した学生リーダーは腐敗にまみれ、堕落した。まあそれは事実であるのだろう。ただ、そのような堕落をくぐり抜けてなおかつ何を持続し探求していけるのか、行くべきなのか。それは私たちの問いでもあるはずだろう。


あなたは今、天安門事件を振り返ってどう思いますか? と問われた岳武はこう答える。

どうおもうかという問題は重要じゃない。あれは未来永劫にわたって、愛国運動であることはまちがいない。

愛国運動という言葉にとらわれてはいけない。
天安門事件が中国現代史を画する巨大な切断面である以上、それを忘却するべき過去として処理できない以上、誰かがその意味を再発見し発展させるべきである。今回の劉暁波ノーベル賞受賞はその証であると理解することもできる。

中国という国自体もそうだが、人も多くの試練を経て大きくなる。つまりは『百練成鋼』(鍛えられて鋼になる)ということだ。
(略)
だが、中国の将来はきっと民主的で、自由で、繁栄に満ちた国になると、信じている。*2

「話を聞き終えたとき、私は大きな負担を背負い込んでいた。」(同)と譚璐美は言う。
読者である私たちもまた、「大きな負担」を理解することができる。自由や民主化という言葉は決して死んだ言葉ではない。私が正しい呼吸をそれらに与えることができればそれらは生き生きと動きだし、私たちとともに動き出すだろう。

*1:isbn:4105297031

*2:同書 p166