松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

「自分自身を説明すること」・1

私はいま「自分自身を説明すること」*1というという奇妙な題の本を読もうとしている。英語では「Giving an Account of Oneself」。
自分自身というのは自己にとってどこまでも自明なものである。その中で葛藤が起ころうと、それを外に向かって説明する必要はでてこない。であるのにそれに反することがタイトルに成っていることが違和感を引き起こすのだ。

「このストを媒介にして何をどのように変革するのか、そして、持続、拡大する方法は何か、について一人一人表現せよ。(松下昇)」

私はこのような命令に慣れてきたがこの命令もかなり奇妙である。何をどのように変革するのかが不明であればストに立ち上がることもなかったのでは、と思われる。変革という当為だけは確かでその具体性は不明確だったということか。すべてを疑え、といったセリフはよく聞くが実際には無理だ。百万円あげるからどのように使うか一人一人表現せよ。それなら分かる。がその場合、それはまったく個人的なことのはずなのに「一人一人表現せよ」という命令の口調が強すぎる気がする。
何をどのように変革するのか問うことが困難だが必須の課題で、各自がそれを自分に対して明確化することの集積によって我々は次のステップへの足がかりをつかめる、とそういった感じだ。


下記を読むと松下の自己−情況認識はフーコーのそれに近いような気がする。

フーコーにおける倫理的自己形成は、自己を無から根本的に創造することではなく、彼が「その道徳的実践の対象を形成するような自分自身の部分を領域画定すること」と呼ぶようなものである。自己に対するこの作業、この領域画定の行為は、主体に先立ち、主体を超えるような一連の規範のなかで生じる。これらは、事物についての所与の歴史的シェーマの内部で、主体の理解可能な形成とされるものに限界を設定し、権力や抵抗とともに剔出される。主体化=服従化[subjctivation: assujettissement]の様態の外部に自分自身の形成(ポイエーシス)は存在せず、したがって、主体が取りうる形式を編成する規範の外部に自己形成は存在しない。そのとき批判の実践は、事物の歴史的シェーマの限界、主体が現れる認識論的、存在論的地平の限界を暴き出す。これらの限界を暴き出すようなかたちで自分自身を形成することは、まさしく、現存の規範に対して批判的関係を維持するような、自己の美学を実践することである。
(同書 p32)

自己がぽつんと置かれている状態は普通束縛のない自由な状態とイメージされる。しかしフーコーにおいては違う。歴史的に与えられた権力や抵抗さまざまな線でがんじがらめになったような形で、まず、自己はいてる。しかしそこで自己は「事物の歴史的シェーマの限界、主体が現れる認識論的、存在論的地平の限界を暴いていく」といった実践をしていくことができる。「何をどのように変革するのか」と同じ問題意識に立っているようだ。


そもそも、私は私を本当には疑うことはできないだろう。でそれとは別に、抽象的に議論すると、主体より先に道徳性があったんだ、ということになる。p34
命令と自己。命令は自己形成あるいは自己陶冶を強いる。ただその関係は必然的一方的な関係ではない。自ら選択したのでない生の条件と闘うこと、そのジレンマが主体である。


人間存在ってものが言わば最初から分裂を被り、基礎づけを失い、あるいは一貫性を欠いた存在だ、みたいなフーコーの主張は、ニヒリズムに陥るだけ、みたいな言い方で大変な非難にさらされた。しかし「私たちは、常に何かから仮装としての偏差を強いられている」したがってそうした偏差を「不確定な主体に不確定な方法〜ジャンルを引き寄せる根拠の追求や、未踏の表現〜ジャンルへの跳躍の試み」*2
によって転倒していこうとする松下から見る場合は、むしろ当然の前提である。


主体というのが無前提に存在するのではなく、道徳性(規範)がむしろ主体を生産する、という話。