松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

バトラーと在日

1)「バトラー自身が語るには、女性にとってトラブルは避けることのできない事態であり、そうであればこそ、いかにトラブルをうまく起こすことができるのかを思考することが、理論の一つの課題である。」(p172岡野八代現代思想ジュディス・バトラー 2000年12月)


@noharra いくつかの言葉を「在日」「朝鮮」「民族」とかに入れ替えて読んでみる。

在日にとってトラブルは避けることのできない事態であり、そうであればこそ、いかにトラブルをうまく起こすことができるのかを思考することが、理論の一つの課題である。


2)「女性的なるもの」が表象されるとき、「表象」の前に参照されることを待っているような本質/自然nature は存在しない。 (p174岡野八代現代思想バトラー)

「在日的なるもの」「朝鮮的なるもの」が表象されるとき、「表象」の前に参照されることを待っているような本質/自然nature は存在しない。


3)フェミニズムの政治が、女性というカテゴリーに訴えざるを得ないのであれば、フェミニズムの政治の前提であるかのような、この女性というカテゴリーこそが、フェミニズムの批判的考察の対象とならざるをえない。 (p174岡野八代現代思想バトラー)

在日の政治が、在日というカテゴリーに訴えざるを得ないのであれば、在日の政治の前提であるかのような、この在日というカテゴリーこそが、在日理論の批判的考察の対象とならざるをえない。

在日は本来韓国朝鮮からの離脱。


4)フェミニズム理論の中心概念2・〈人間の〉歴史の単線的で同質的な語りの効果として、断片的で、異種混在した時間の様態が忘れ去られてきたきてきたことを指摘する。[女性の物語her-story の救済] (p174岡野八代現代思想バトラー)

国民の(青人草の)歴史の単線的で同質的な語りの効果として、断片的で、異種混在した時間の様態が忘れ去られてきたきてきたことを指摘する。[周辺の物語の救済]


以上は、11/15にtwitterでつぶやいたもの。


5)

@hibinomakoto 先進国は国籍による区別(排除)の上に成立しています。次に国家は自愛的幻想を必須とし日本は朝鮮を差別することにより日本書紀のころその幻想を成立させました。次に「大東亜戦争」の総括できてなさがあります。このような位相の違う「差別」一緒くたにすることに反対。
posted at 11/30 20:18:06


「@hibinomakoto その「事実」とそれを今後も是とするか否とするかは、別」おっしゃるとおり。メンバーシップとしての、古代の幻想としての、敗戦のねじれとしての日本3つともにNONを言いたい、私は。しかし3つをごっちゃにして「ノンという立場」が直ちに成立すると考えるのは錯誤だ
posted at 12/1 05:51:24 (野原)

日本という強い求心的磁場が存在するので、その反作用として在日は本質主義的湾曲を受ける。

なぜ女性を在日に置き換えていいと考えたのか意味不明。

という当然のつっこみがid:bogus-simotukare さんから入った。

人権と国家暴力との共犯

Butler, Judith. "I must distance myself from this complicity with racism, including anti-Muslim racism.
http://www.egs.edu/faculty/judith-butler/articles/i-must-distance-myself/ *1
安心してください。バトラーはあらゆるレイシズムが嫌いなので、無償化排除がレイシズムなら、無償化排除にも反対だと理解できます。


ま政治的なことについてバトラーが何を考えている人なのかは、
http://d.hatena.ne.jp/tummygirl/20100628/1277728869 をざっと見ると概ね理解できます。

いわゆる「欧米先進諸国」において承認されてきたような形でのLGBTの「人権」擁護という概念が、ナショナリズムや人種主義、さらには移民政策から戦争までを含む多様な国家暴力によって利用されてしまう、あるいは互いに積極的な共犯関係を結ぶ、という事態がとりわけこの10年ほどの間で急速に進行し(tummygirl)(同上)

でこれの言い換えですが、

いわゆる「欧米先進諸国」において承認されてきたような形での在日の「人権」擁護という概念が、言論の自由を認めず強制収容所を廃止せず国内外に難民を発生させ自国民を飢餓に放置する多様な国家暴力によって利用されてしまう、あるいは互いに積極的な共犯関係を結ぶ、という事態がとりわけこの10年ほどの間で急速に進行し(tummygirl)(同上)

という言い換えに何か意味を見出しうるかという問題になるわけです。


ところで、言い換えがそれ自体として何も意味し得ないこと、は自明です。
(休憩)
草稿にも至らないただのメモを公開してしまい迷惑をお掛けして申し訳ありません。

菅井良・日記 さんが、

批判的に? 取り上げてくださったようだ。
http://d.hatena.ne.jp/nobtotte/20101103
ここもひらがな書きだ。私は「ひらがな書き」には明確に批判的。近代言語学の明治日本的形態、近代言語学宣長の気持ち悪い癒着だと思っている。で一部漢字に直しながら読んでみる。

ぼくらは、「在日」 もんだい という。

だが、このいいかたは ふさわしいもの だろうか。

それを 「在日」もんだいと よぶかぎり、朝鮮人差別の 言論圏内から 離脱することは できないのでは あるまいか。<<在日はほんらい韓国・朝鮮からの離脱>>

とあるが、これは のはらさんの とらえかただろう。

何をおっしゃりたいのか、よく分からない。


「在日」という言葉を独自で使い始めた最初は、詩人金時鐘ではないかと思う。韓国なり朝鮮なりという固有のものをもった人々がたたまたその時日本に滞在している、それが歴史の偶然でたまたま長期化しているもの、「在日朝鮮人」という言葉の元々の意味はそうしたものである。すなわちそれは政治的には、韓国あるいは朝鮮という相反する国家のどちらかを強く指向するナショナリズムが正しいので、それに向かって純化していくべきだという思想が一般的だった時代である。
ところが、80年代、90年代とすでに3世とかが大きな比重を占めるようになり、貧困からもかなり脱却してくる。なにより生まれたときから日本にいる子供たちは半島で育った人たちとはまったく違った文化を身につける。それを外からの政治思想によりむりやり、韓国あるいは朝鮮というものへアイデンティファイしなければばならないというのは無理だ、という時代になった。それでも国家というのは究極的な権威を持っているので、在日の「在日性」それ自体を価値として主張していくのは最初容易なことではなかった。
「在日はほんらい韓国・朝鮮からの離脱」というのは、このような意味である。

 
『「在日」を生きるとは』尹 健次*2 や、『「在日」のはざまで (平凡社ライブラリー)』 金 時鐘 
を読んでも読まなくても、そういうことになると、思いますが。

どこへりの りだつか?
にほん への りだつ では あるまい。

もちろんです。
韓国・朝鮮からの離脱は、直ちに日本への同化になるかというとそうではなく、「在日」という特異なエスニシティクレオール的なもの?)を形成しているわけです。

*1:英語も読めないくせに1行だけ掲げるな>野原

*2:この本は読んだな