松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

tmsigmund 2/27

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090223#c1235665071

noharaさん

ご自身でいろいろと問題を深められていらっしゃるように思えますので、もうあまりわたしが返答することもないような気がしますが、言及していただいているので(ありがとうございます)、多少応答いたします。

> 幻の「正義の原点」から語り始めること

だれが「幻の『正義の原点』から語り始めている」ということなのか、noharaさんの書き方では少しわかりにくいのですが、わたしも含まれているのかな、と思いましたので、一言。

(正義)←          A B          →(不正義)

所詮われわれは、無限の両端の間での小さな差において「Aの方が正義だ」と言ってみたり、「Bの方が不正義という現実を踏まえている分だけ真摯だ」とか言ってみたりしているだけではないかと、思います。しかし、われわれはあまりに卑小であるがゆえに、逆に、この小さな差がたいへん重要にもなっていると思います。わたしは、自分がある場合Aであり、別の場合Bであることを、意識します。これはほとんど受け入れ難い断絶であると同時に、すぐにも入れ替わってしまうようなわれわれの狭さを現しているのではないでしょうか。

noharaさんが「正義の身振り」にたいして疑惑を看取されるのは、よくわかります。それが常に自己批判としてなされていることも、よくわかります。ABがすぐにも入れ替わるほどの隣り合わせである点では、「幻の『正義の原点』」批判は、よく理解できるつもりです。ただし、その卑小な距離が、あるときには、無限の差であるかのようにも感じてしまいます。わたしはこの感じ方を、問題を含む特殊な感じ方かもしれませんが、否定することができません。

> (1)「村上にはそのイスラエルの度量から逃れる、かすかに開かれた自由の方向が
> あるからです。」村上というその人がそうであったとして、村上はオバマと違って
> 政治家じゃないので、わたしたちは彼が持っている「かすかに開かれた自由の方向」
> に興味を持つ必要はないんじゃないでしょうか。

どうも、こういうきり返し方が、どういう心積もりでなされるのか全然わかりません。noharaさんが、「春樹はどのように振る舞っても批判を免れえなかったという罠にはまった。それに同意するか?」とおっしゃられるから、それにたいして、わたしは、村上がある種の「自由」を持つかぎりは、避けがたい「罠」などなく、「その行動はすべて村上の責任に帰されると考える」と言っているのです。noharaさんから「必要もないことに、わざわざ興味を持っている」というようなニュアンスで、言われる覚えはありません。

その上で、さらに言うと「政治家」の話などしていません(どういう脈略?)。いままで自分がやってきたような「小説家」をやめることが、明瞭な「政治的」態度としてあらわれる、と言っているのです。村上は、大江やサルトル的な知識人作家の否定として、自分を育ててきた人です。それなのに、疑惑の多い「コミットメント」を始め出して、よけいキワモノになっていた。そこに「エルサレム賞」受賞拒否が求められた。これは、「旧来の知識人」としての振る舞いを求められたということです。だから、潜在的には、その要求自体にたいして「そんなことが成り立つのか?」という「賛否両論」があったわけですが、とりあえずわたしは、ありえるというふうに考えるから「受賞拒否」すべきだと表現しました。

だから、そのとき、「受賞拒否」派は、村上に「自由」があると考えていたことになっていたと思います。まあ、村上がイスラエルに挨拶を交わし、新たな存在として生きなおす「自由」をみすみす取り逃した今となっては、noharaさんのおっしゃることの方が、正しいかもしれません。

> 「壁と卵」はヒューマニズムに回収されない比喩である、そうとしか受け止め
> られないという読みを遂行しつづけること。これは意義があることであり、
> しかも容易なことです。(隔離)壁のイメージは容易に手に入りしかも衝撃的
> であるのですから。

これには、とくに反論いたしません。noharaさんとしては、それでいいと思います。ただし、そういう意味では「壁」は比喩ではないでしょう。非常に具体的現実的な存在です。一方、「卵」についていうと、わたしは基本的には、この手の比喩には、これからも攻撃的言辞を抑えるつもりはありません。

> 「あなたも何か役立つことをしてくれ」春樹がパレスチナ民衆のために何かするべき
> でありしなければならないのか?しなければならないことがあったとして、それは賞の
> 拒否という形でのエルサレム賞への加担の拒否であった。それ以上のもの期待した
> のはあなただけだ。

「役立つこと」=「受賞拒否」という意味で言っています。「受賞拒否」は、パレスチナ民衆のためになったはずです。イスラエルに対して作家がボイコットをすれば、それは大きな政治的アピールです。なぜ、ごく普通に考えないので、わたしが特殊なことを言っていると仕立て上げるのでしょう? 

> ガザの非道を糾弾する動機はパレスチナナショナリズムでもよいし、イスラム主義でも
> アジア主義でもなんでもよい。「本来このヒューマニズム」というヒューマニズム
> 要請されなければならない理由は一切ない。「本来このヒューマニズム」といったある
> 思想を前提に論が始まらなければならないのか。市民運動に対してこのようなアプロー
> チは不要でありしばしば有害であったことは体験が教えている。

「もともとのヒューマニズムのそこの浅さが、露呈してしまっているのではないか。」というわたしの文章では、カギカッコをつけて「ヒューマニズム」にすればもっとわかりやすかったですかね。ここでは、問いかけた人にたいして、嫌味をいっているわけです。「あなた方の振る舞いは、一見『ヒューマニズム』に依拠しているように見えますが、なんか怪しいですね。どうせなら、エセ『ヒューマニズム』でもいいから、徹底してくれたほうがありがたいんですがね」ということです。

それと、わたしが「市民運動の根拠が『ヒューマニズム』でなければならない」と考えている、というのは、どんなところからそう見なされるのか、さっぱりわかりません。というか、現実的には、日本の多くの人が「ヒューマニズム」の言葉に依拠してしか、パレスチナ問題をとらえることができないわけではないですか? 「ガザの非道を糾弾する動機はパレスチナナショナリズムでもよいし、イスラム主義でもアジア主義でもなんでもよい」と、おっしゃりますが、ほぼすべての日本人には、その3つどれもがありませんよね。だからどっちかというと「ヒューマニズム」しかない、というのが現実だから、それを問題にしているわけです。

最後に、言わせてもらいますが、なぜ、これほどいちいち人の発言している文脈を、平然と無視したり、あるいは、自分の語っていた文脈を忘却したかのような口ぶりで新たなことを言い募ったりするのでしょうか? 人の言うことなど、ちゃんと読まない、というのが、こういった「ブロガー」のしきたりと習慣なのかもしれませんが、せめて、ご自身の文脈ぐらい、忘れないでいてほしいと思います。mはあまりにひどいようですが、noharaさんには期待しています。

壁と汝と どちらが重いのか?

世界はつねに私によって感じとられ解釈されるだけのもの、それ以上のものではない。俺は他者をつねに自己に引受けともに生きようとしている、きみとは違って、とあなたは言うかもしれないが、それすらもあなたが規定するところのあなたの世界構図にすぎない。
「「《イスラエル》=《壁》で、《パレスチナ》=《卵》だ、というのはすぐ思いつくことだが、そんな単純なことだけを含意したいのではない」という力点を持っていることである。http://d.hatena.ne.jp/tmsigmund/20090220」と論評することにより、壁はあなたに評価されるものにすぎなくなり、自己を圧倒的に迫ってくる圧迫感を失ってしまう。
「卵と壁」という比喩は、卵が何を発語しようが壁によって押し潰されると告げる。自己の至上性のなかでぐるぐる回ることしかできない言説こそが、卵に比喩されてしまう。根底からの批判。あるいはそれを卵とよぶことはむしろ神の捏造であるだろう。逃げることが不可能な悪魔の比喩である。
 *1

比喩と戯れるのは禁止とお触れを出そうとした人がいる。しかし「比喩と戯れる」とは何かを定義するために元の文章と無限回の対話をする必要がでてきて、禁止は不可能となった。

*1:脱出口は http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090222#p3に示した。

『幻の正義の原点』批判

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20090223#c1235665071
id:tmsigmundさん 上記への応答です。(ひとつ上の「壁と汝と どちらが重いのか?」もあわせて読んでください。)

(正義)←       A B        →(不正義)

仮りにでもあれ、思想というものがこのような一次元の直線としてイメージされ得るということに驚いています。現実というものは、つねに有限の次元としてしか思考できませんが、わたしがn次元で思考している場合常に(n+1)次元の現実によって裏切られると思います。

ABがすぐにも入れ替わるほどの隣り合わせである点では、「幻の『正義の原点』」批判は、よく理解できるつもりです。ただし、その卑小な距離が、あるときには、無限の差であるかのようにも感じてしまいます。わたしはこの感じ方を、問題を含む特殊な感じ方かもしれませんが、否定することができません。

A、Bというのが何の比喩なのかよくわからないのですが、Aが批判されるべき村上の思想で、Bはtmsigmundさんの思想を指すのですか?
わたしは村上の思想は取り上げていないし、そもそも取り上げる必要があると思っていません。スピーチを自己慰安的に消費させないための努力が必要であるだけです。

「今回の村上のスピーチに賞賛を送るのは、もともとのヒューマニズムのそこの浅さが、露呈してしまっているのではないか。」底の浅いヒューマニズムではないtmsigmundさんの思想とは何のか?

 その意味で、「ガザの苦しみと、イスラエル人たちの市民的な苦悩が、同じことか、いや、むしろ後者の方が村上の大きな関心ごとだと述べていることになる」を「見過ごせない」と述べていることを、僕は見過ごすことができません。それって、ガザのパレスチナ人の位置でモノを語っているってことでしょう。
http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090222/p1

、というmojimojiさんの指摘が当たっているでしょう。「この父親が中国戦線で多くの中国人を殺してきたはずだということ」という加害者としての負い目を通じて「ガザのパレスチナ人の位置」に横滑りすることが、正義だと考えられてる。しかしそれは、自己の閉塞感を反転させ、ひとつの幻の焦点を作りその幻の「正義の原点」から世界を語り始めること、にすぎない。

これには、とくに反論いたしません。noharaさんとしては、それでいいと思います。ただし、そういう意味では「壁」は比喩ではないでしょう。非常に具体的現実的な存在です。一方、「卵」についていうと、わたしは基本的には、この手の比喩には、これからも攻撃的言辞を抑えるつもりはありません。

パレスチナ人にとっては日常的存在ですが、私にとってはそうではありません。これを身近に引き寄せようとわたしのブログでは努力してみたわけです。パレスチナ隔離壁は日本ではリアルなものとして存在しておらず、それを引き寄せるためにも比喩は必要です。
「卵の側に立つとは、主体ではなく主体の破壊という危機の側に立つということであり、ヒューマニストという自己を肯定することへの批判である。」という比喩の解釈には批判いただいておりません。

>>「受賞拒否」は、パレスチナ民衆のためになったはずです。
エルサレム賞の権威を傷つけることができればですが、拒否してもそれは難しかったでしょう。

>>それと、わたしが「市民運動の根拠が『ヒューマニズム』でなければならない」と考えている、というのは、どんなところからそう見なされるのか、さっぱりわかりません。
パレスチナ支援者は「パレスチナ人民の立場にたったヒューマニズム」の立場に立つべきだ、としてあなたは、他の参加者を批判した。「パレスチナ人民の立場にたったヒューマニズム」というものは表面的にみれば正しく批判の余地はないかに思える。しかしそうであればこそ、そうした批判が「市民運動に対してこのようなアプローチは不要でありしばしば有害であったことは体験が教えている。」


>>最後に、言わせてもらいますが、なぜ、これほどいちいち人の発言している文脈を、平然と無視したり、あるいは、自分の語っていた文脈を忘却したかのような口ぶりで新たなことを言い募ったりするのでしょうか? 人の言うことなど、ちゃんと読まない、というのが、こういった「ブロガー」のしきたりと習慣なのかもしれませんが、せめて、ご自身の文脈ぐらい、忘れないでいてほしいと思います。
自分が希望するように、他人がその文章を読んでくれないというのは当たり前のことです。繁雑なように見えても、すべての批判は相手の文を引用し、それに対し具体的に批判を加えるべきです。

>>mはあまりにひどいようですが、
この部分は削除して再コメントしてください。
書きたければご自分のブログ、またはmojimojiさんのところのコメント欄を使用するべきです。

要するに

村上春樹エルサレムでの生産物(テキスト)の評価をめぐって

  1. 灰色に見えるそれをmojimojiさんと野原とは、ある目論見のもとに、「かなり白い」と評価し、*1
  2. 灰色に見えるそれをtmsigmundさんは、批評的見地から、「真っ黒」と評価している。

ここでtmsigmundさんの批評的営為は、高く評価されるべきです。仮りに細部に問題があったとしても、春樹称賛にネットも世の中も覆われつつあるなかで、必要な批評であったことは確かです。
問題点は最初から、この点です。
「それどころか「自己免罪」の誘惑に負けている「親パレスチナ支持者」」という規定。他者の思想を評価する「どんなヒューマニズム」にtmsigmundさんは立っているのか?

*1:正確には、スピーチの思想について白とも黒とも判断する必要はない、というのが野原の立場だが

おまけの問題

小島信夫の『アメリカン・スクール』という新潮文庫を30年以上前から持っていて読んでいなかった。そのうちの「燕京大学部隊」という短篇を昨日読んだ。
1944年、支那方面軍の兵士だった主人公が、米語が出来る人の募集で、米軍の無線傍受する部隊に行く。その部隊は、日本語があまりできない米国2世や癖の強い兵士が集まっていて、軍隊とは思えないような別世界。

万寿山のふもとには、支那家屋を改造した兵隊のホールや遊び場があり、裏手にバラックの長屋が並んでいた。長屋には戸毎に花子、とし子、松子、梅子、きよ子、といった日本名の女の名札が掲げてある。それがすべて支那人であった。

さりげなく書いてあるので、ただの民営あいまい宿だと思って読了したが、書き写して見ると、軍の慰安施設でほぼ間違いないようだ。
従軍慰安婦論争が華やかだった10年前、小島は(大衆的人気はなかったが)ポストモダン系インテリが持ち上げる文壇の最長老でしたね。
tmsigmundさんの村上批判は、幻の正義の原点から、文学者を裁断しているようにも見える。(誤解なのかもしれない。)小島については、
「村上にはそのイスラエルの度量から逃れる、かすかに開かれた自由の方向があるからです。それは、村上自身が積み上げてきた「免罪の文学」を、徹底的に自己批判することです。あるいは、そのような小説家であることをやめることです」と書かれたような批判は向けなくて良いのでしょうか?
論争の文脈では答える必要がないと思われるかもしれません。それとは離れても、中国にいた兵士の体験を21世紀にどう受け継いでいくかは大事な問題だと思うので、おひまな時にこの短篇を読んで、回答いただければ幸いです。
なおこの短篇は面白かったです。うまく見通せないですが、小島はやはり大作家なのかなという感じはします。

シオニスト左派の芸術的価値について

アモス・ギタイについて
映画がお好きなtmsigmundさんは、ギタイを見られてますか。彼の地味なドキュメンタリー「エルサレムの家」は、文字通り、ある家に「今住むイスラエル人の人たちや、本来の所有者であったが追い出され、別の場所に住んでいるアラブ系の人たちへの取材を通して双方の関係を描き出す。」*1作品。
イスラエル人の無意識の欺瞞まで描き出した非常に鋭い作品だと感心しました。
でギタイもやはり「シオニスト左派にすぎない」と早尾さんはいうわけです。
ギタイも自己批判すべきなのでしょうか。
以上、tmsigmundさんを批判しているわけではなくただの質問ですので、お暇な時にご一考ください。