松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

首都占領は恋愛のチャンス

廉想渉(ヨムサンソプ)の『驟雨』は面白い小説だ。
1950年に書かれたとは思えない、とてもモダンな感じ。
白川豊による翻訳が出たのが、2019年、21世紀に書かれたと言われてもだまされてしまうだろう。

「フロントグラスをザーザーと容赦なく叩きつける大粒の雨を、ルームライトを消した真っ黒な車内にいる皆は(略)」という車内の描写からはじまる。大金が入ったバッグと美しい女秘書をつれた社長が逃げようとしている。まるで映画のようだ。
しかしこれは、数百万ソウル市民が体験した北朝鮮軍による占領体験を市民の側から詳細に記述した小説なのだ。朝鮮戦争勃発の2日後である、1950.6.27から50.12.13までの時期のソウルを描いたもの。
国民的なあまりに重い主題とそれとうらはらなポップなスタイルの矛盾が、この小説である。

廉想渉(1897-1963)は李光洙(1892-1950)より5歳下なだけ、黄晳暎(1943年生)などよりずっと先輩になる。
経歴を見ると、1918年慶応大学予科入学するも半年で辞め、福井県小新聞の記者になり3カ月で辞める。後東亜日報ほかのソウルでの新聞雑誌者で活躍とある。金達寿の『玄海灘』の主人公とそっくりだ。
廉想渉は1919年の三一独立運動に際して、大阪でビラ撒きしようとして拘留された。1945年光復後、多くの韓国の文学者たちは愛国に目覚め社会主義化し越北する人も多かった。廉想渉はリアリストとされ彼らとは一線を画した。多くの絶望を抱え込んでしまったのだろう。
ただ、『玄海灘』の方は未来のネーションを支えるべき二人の青年が主人公だったのに対して、『驟雨』は吹けば飛ぶような一人の女性が主人公である。

「避難民が溢れそうに通り過ぎるのを、食後に出てきたのか孫を連れた老人がぼんやりと眺めており、その前で黄色い子犬が尻尾を振っている。この奇妙な対照!」(同書解説p418の作家の文章より)
全てを捨てて歩き続けなければならない宿命に押しつぶされそうな避難民たちに対して、「この老人は燦々と降り注ぐ日差しの下で座っているようにみえる」
われわれの生活と思考と感情のすべてがその軸を失った以上、そこに与えられたわずかなぬくもりの中で思い存分背伸びしてみることもできるはずだ。首都崩壊のただなかでの災害ユートピアの幻をこの小説は描いている。

姜スンジェははきはきした美しい新女性である。社長の秘書で愛人でもあったが、戦争の混乱の中で自らそうした関係から自由になる。そして間借りすることにもなる元の同僚申永植に急接近しはじめる。「スンジェの愛欲心理と恋人・永植に対する実際の積極的なアプローチが、かなり具体的に書き込まれている」と白川氏に評されている。

朝鮮の首都が共産主義者によって占領され、数カ月後逆転する、それは決して『驟雨』などと軽々しく呼ばれるべきものではないはずだ。しかしそれはその後70年経っても分断を解決できなかったこの世界(南北朝鮮とその周辺国家)の歴史が、そういう重みを背負わせてしまったのだ。
光復によって民族が解放された以上、なんらかの統一は近々なされなけらばならないしなされるだろう、と当時の人々は信じただろう。スンジュの夫は共産主義者になり越北するが、占領軍としてソウルに帰ってきて復縁を迫る。しかしスンジェは「勇気がない」として拒否する。しかし「私は心の中では、あるいは精神的にはあなたの妻です」と書きとめる。
「北」に傾くことなく身を処し続けた廉想渉は、思想的にも「北」にとらわれず、かといって反発もせず、自由に生きつづけた。戦乱のなかでのスンジュの小さな恋愛のたたかいを長編小説に記し、讃えた。

『新女性を生きよ』朴婉緒を読んで

新女性を生きよ』朴婉緒の自伝3部作の最初。大ベストセラーになった。やっと読み始めたが、とてもおもしろい。*1

彼女は1931年生まれ、開城(松都)近くの片田舎の両班の家に生まれる。その田舎の小村は両班が2軒、非両班が16軒ほどで、農地は村人が所有する格差の少ない村だった。

「厠の角から裏山に通じる道には露草がびっしり生えていた。きよらかな朝の露を含んだ藍色の露草を無残に踏みしだくと足は自ずと洗われ、爽快な歓喜が樹液のように地面から体に立ちのぼってくる。衝動的な喜びをどうしてよいかわからず、露草で笛をつくると細くふるえるような音がした。p65」
自然がたんなる自然ではなく、実存と直接交流するかのようなダイナミックな記述。ほぼ同世代の作家である森崎和江石牟礼道子(ふたりとも1927生)に通じるものがある。


しかし彼女はそのような小ユートピアから離れ小学校に入学するためにむりやりソウルにいくことになる。これは、彼女の母親が〈新女性〉というものにやみくもな憧れを持ち、自分が叶えられなかった望みを娘に託そうとしたからだ。
「お前もソウルで学校に通わなくちゃ p33」
試験がある。「“お前は何だってちゃんとやれるはずだ”と言いながらも母は、一日に何度も予想問題を出してわたしを疲れさせた。p45」合格。
「入学すると同時に朝鮮語は一言も使えなくなり、目に見えるものと行動を日本語で反復して注入された。p63」
「先生は美しく、匂うようだった。母がいう新女性がこの先生だ、とのぴったりの見本を目にしたようだった。子どもはみんな先生を慕う。(略)きれいな先生は心もやさしくて、親鳥にピョコピョコついてまわるひよこのような子どもたちに、注意と愛情を平等に分配しようととても神経を使っていた。」
一人ひとりの子どもに配慮するゆきとどいた教育、しかしそれは「日本語の強制」というトゲとともにしか与えられないものだった。というかそれは多くの人が望んでも得られないものだったのだから「強制」とも少し違う。植民地に生きるとは、すべての希望が結局のところ日本、日本文化に集中していく、そのような構造のなかで生きることと、それへの反発の体験である。


「新女性を生きよ」というのは、朴婉緒の母親から朴婉緒が受けた命令、祈りのような命令だ。朴婉緒の母親は「新女性」にあこがれ、朴婉緒をそのように育てようとした。
「母の実家も似たりよったりの田舎だが、外祖母(母の母)がソウルのかなりの家で、朴積谷に来る前の娘時代のひと頃をソウルの叔母たちと過ごしたことがあったらしい。いとこたちが真明とか淑明とかの女学校に通っていて、それがこの上なく素敵に思え、うらやましかったらしい。母は肩つりのチマを着て革靴をはき、新式の教育を受ける女性たちをひとからげに新女性と呼びならわし、わたしもそのように育てるのが願いだった。p17」

21世紀のわたしたちはすべての欲望を体験した後なおも、女子高生たちの素朴な明るさを愛している。まして百年近く前のソウルの女子高生たちはどんなに輝いていたことだろう。
「母」は、近代や自由というものつまりはまるごとの世界への熱い希求を「新女性」ということばに賭けた。そして思い込みが強い性格である彼女は、その希求をまるごと朴婉緒に投入する。
それが「お前もソウルで学校に通わなくちゃ p33」である。


韓国の歴史を語るときに、親日反日という価値基準は外せない。しかし、1945年8月までは日帝が韓国を全面的に植民地支配していたのであり、何をやるにしても日帝の権力にすり寄っていくことはほとんど必須のことであった。民衆はいつも日々のささいな利益のために権力にすり寄るものである。そうしたふるまいをあとになってすべて、「親日行為」とイデオロギー的に断罪するのは乱暴であろう。
しかし、そうしたことを無条件に許してしまえば、「誇り」が崩壊するのであり、虐げられた民にとっては「誇り」もまた必須のものであるのだ。

 

「日本が負けたことをわたしたちが知ったのは、一群の青年たちが、突然棍棒を持って家に押し入ってきたからだった。彼らは仲間うちで嬉々として戯れるかと思うと肩をそびやかし、ガチャンガチャンと家財道具や扉をたたき壊し始めた。」p150

1945年8月15日、日本が負けて、今までの権威日本の権威はゼロになる。それぞれの地域で「親日派」として権勢を奮っていた人の家は襲われる。ただ、朴婉緒の(祖父の)家は地元でさほど恨みは買っていなかったようだ。
「この日、我が家が受けた暴力は深い怨恨に色どられた組織的なものではなく、急に抑圧が解けて抑えつけられていた力がそんなふうに噴出した一種の祝祭行為だったといえる。青年の暴力はいくつもの村をめぐっていくうちに自然に鎮静していき、(略)」p152
数年後の朝鮮戦争時には「青年団とか自衛隊とか左翼とか右翼とかいう政治的なもの」が人の心を入れ替えてしまい、信じられないような暴力が横行することにもなったのだが。

朝鮮戦争時朴婉緒一家はソウルに住んでいた。避難が遅れているうちに前線が家を通り過ぎて行き、“一晩で世の中がひっくりかえった”。兄は(北側の)「義勇軍に持っていかれた」。
三ヶ月後、「世の中がまた、ひっくり返った。」p215 米軍がソウルを制圧したのだ。そのような中で、義姉は男の子を出産する。

青年団とか自衛隊」とかいう愛国団体がたくさん出来、アカ狩りにせいを出す。告発と密告が荒れ狂う。理解はできるが悲惨なできごとである。

そして大きな問題は、右か左かという分断は若者個人個人の実存の内部にも走っていたことである。
兄は共産主義関係のパンフレットなども持っており、朴婉緒も影響を受ける。(p170)女学校にも民青の組織があり、南山でのメーデーの集会に誘われ出席する。彼女はそれ以上は目立った活動はしていないが、それでもアカとして調べられ、アカメスと呼ばれる。(p218)

右か左かという分断が首都、大きな町の上を砲弾とともに通り過ぎていく。それとは別に、右か左かという分断をはんらかの形で自分自身の内部にも(あるいは家族のなかに)抱えている人は少なくないのだ。

苦しく巨大すぎる問題が首都と自己の核心を捉えて全身を塗り替えていく、ありえない体験。多くの韓国・朝鮮人はこうした体験をした。

ただこの小説はそれを書こうとしたものではない。まだ少女だった自分と家族が世の中の流れに流されるなかで体験した(せざるをえなかった)事実を記したもの、に過ぎない。ただ庶民といえど、ただ受動的に流されたばかりではない、希望を持ち決断し挫折する、そのような時として滑稽なせいいっぱいの生き方が描かれる。
両班の長男の嫁という立場にも支えられた「母」の自然で強力な誇り(自恃)も印象的である。かって私たちの間にも少しはあったそれを、わたしたちは思い出すべきだろう。

*1:「どこにでもあったあのスイバは誰が食べつくしたのか」が原題。『新女性を生きよ―日本の植民地と朝鮮戦争を生きた二代の女の物語 教科書に書かれなかった戦争・らいぶ』梨の木舎1999年刊 「日本の植民地と朝鮮戦争を生きた二代の女の物語 教科書に書かれなかった戦争・らいぶ」という副題は、この小説から歴史を学ぼうという問題意識だけが強調されすぎ不適切と思う。

和解のためのパラヴァー(徹底的話し合い)

謝罪は難しい。自分が正しいと思ってやったことを咎められた場合、相手が自分の正しさを主張すればこちらもこちらの正しさを主張し返すことになり、きりがない。
だからそういうことは止めよう、と考える。しかしそれでは不正は放置されたままになり、社会は良くならない。被害者の気持ちも収まらない。ではどうすればよいか?

https://www.youtube.com/watch?v=ddfboRLj2Ew
京都大学のオンライン授業で、松田素二先生の、「アフリカから学ぶ人文学」という講義を聞いた。

アフリカでは何度も大きな紛争が起こっている。そして終結した。
一番有名なものは 南アのアパルトヘイト(1994年廃止)と1994年ルワンダの大虐殺(100人が犠牲になった)。
このような問題に対して、先進国インテリは「加害者の処罰をすべきだ」など言うが、今までうまく行っていない。上手く行かない場合、先進国側はそれをアフリカの未発達、未開のせいにしてしまう。
それに対して松田氏は「アフリカの潜在力」に注目すべきだとする。先進国がアフリカに学ぶべき点があるのだという新しい立場である。
どのように解決すれば良い?
法と法廷によって加害者を裁く、これが私たちの考え方。しかしそれによって、問題解決したと思われる例はなかった。
別の考え方がアフリカ人によって提起された。それはむしろ加害者を受容するという問題解決の仕方だ。加害者も被害者も同じコミュニティのなかで生きていくしかない。
それは乱暴に言えば、真実よりも和解・癒やしを追求するという考え方だ。アフリカ風には「顕微鏡型真実」ではなく、「対話的真実」と言う。
顕微鏡型真実は、物的証拠などを細かく積み重ねていって裁判所が「事実」を認定しそれによって「罰」を決める。
対話的真実とは、加害者と被害者が互いに話し合った中で了解しあえたものを真実とするという考え方。
南アの真実和解委員会(TRC)やルワンダの共同体法廷(ガチャチャ)でも、対話的真実の考え方が採用されている。これに問題がないわけではないが、顕微鏡型真実による解決よりは有効だと考えられる。
罰を与えるシステムには、今後どのようにしてひとびとが「よりよくともに生きることができるか」という問題意識が欠如しているからだ。

このような思想の核心として、コンゴのゲリラの指導者でもあった哲学者・社会学者ワンバディア・ワンバ(去年コロナでなくなった)はパラヴァーものを強調する。

パラヴァーとは、誰もが参加し自由に雄弁に意見を述べ、全員が一致するまで話し合い続け最終的に「違い」を乗り越え合意に到達する会合(あるいはその場)ことである。何日も掛けることもある。
被害者がその思いを大きな悲嘆とともに語る、加害者はそう言ってもと自分の思いを語る。それは当然被害者のより大きな怒りをまねく。そのような巨大なエネルギーの交換が長く続く。(ミンデルが炎と言っているもの)
この場合、お互いの「違い」はあってはならないものとはされず、否定・征服されたりしない。南アにおける白人の立場は確かにある立場からは全否定しうるものかもしれないが、現実には50年以上続いているものである以上、そうすることはできないのだ。
そして、感情を徹底的にぶつけ合うことによって、その場に参加・関与する異質なひとびとのあいだに、それまでなかった共同性(一体感や共通価値)や熱狂、祝祭感覚をつくりだす。そういうことができるのだ、というのだ。
これは別に理想論ではなく、実際に各地で行われていることだ、というのだ。

わたしたちは多数決が民主主義であるかのように教えられているが、日本でもかっては、満場一致を原則とし、それに到達するまで粘り強く話し合い続けるという文化は珍しくなかった。多数決を理解しないのは遅れていると先進国の人は言うのだが、それも一方的だろう。(日本では現在国会できちんとした討論は行われておらず、多数決だけが機能しており、民主主義とは言えない。)

これを読んだとき、全共闘時代の大衆団交の理想に近いものを感じ、非常に興味深く感じた。
大衆団交について、松下昇はこう書いている。
「学生側(特に全共闘派)は大学構成員に関する全ての問題を、直接・対等・公開の原則に基づいて討論し、実行することを目指し、自他の生き方の検証の場としても把握していた。」対立は持続し、解決するまでこの場は終わらないという感覚は共有されていた。
http://666999.info/matu/data0/gainen32.php

パラヴァーは和解を目指すのに対して、大衆団交にはそういう指向はなかったという相違はある。しかし、納得するまで問い続けるという迫力が何かを生み出しうるという共通するものがあると感じた。まあこれは読者には分かりにくい話ではあろう。

罪と罰」プロセスだと、過去の事実に罰(評価)を与えるだけである。「告発と謝罪」プロセスだと、被害/加害関係が予め決まっていて、加害者側は謝罪をする場合でも強いられた謝罪になり、ほんとうの謝罪には永遠にたどりつけない。
つまり、相手と共に生きるという結果から逆算すれば、パラヴァーのようなプロセスは絶対に必要である、と言えると思う。

また、裁判というものを国家に譲り渡さないというパラヴァーのヴィジョンは、これからのアナキズムを考える上でも必須のものであろう。妥協や復古、長老の価値というわたしたちが今まで否定的に見てきたものに対しても、再考が必要だということになる。

(この文章は、松田先生の下記動画・パワポにあった文章を引用符抜きで引用、あるいは一部改変させていただいております。
https://www.youtube.com/watch?v=ddfboRLj2Ew したがって野原が著作権を主張しうる文章ではありません。ご容赦ください。)

追記:現代日本においては、エビデンスに基づく裁判による有罪でなければ、加害者であっても自らの加害を認めないといった、「顕微鏡型真実」観の悪用さえ起こっている。直接関係ないが付記しておく。

差別を禁止しても・・・

https://www.youtube.com/watch?v=rc6qdM4Cv7Y
「ミンデル『紛争の心理学』の「反差別主義」を入り口に熱く語る」という、三鷹ダイバーシティセンターの4人による討論がある。
ミンデルの本のなかで、「差別をなくすべきとする考え方、は偏見はなくならない ということを見落としている。」と一行にであったとき、田中かず子元教授が衝撃を受けたことが動画で表情豊かに表現されており興味深い。
「差別をなくすため」の活動を世界中の研究者・アクティヴィストは国家や行政末端と協力し、日々啓蒙活動とかをして努力しているわけである。そうした努力を一行で否定されても困る。そういう困惑だろうか。
正確ではないような気がする。単純な設問であるがゆえに、簡単な感想文も書きにくい。そこでほぼ諦めた。

 

彼女たちはこの本に「第10章 人種差別主義者は誰?」という章があるのに抄訳では省かれていることに気づき、著者アーノルド・ミンデル氏に連絡し翻訳した。
「人種差別がテーマですが、これを読むとあらゆる差別問題に通ずるものがありとても大切な部分。残念ながら日本語に訳された本にはこの章は入っていませんでした。
なので恩師でもあり著者のアーノルド・ミンデルに許可をいただき、私たちが訳したものを学びの参考資料として無料でみなさんと分かち合うことを承諾してもらいました。」とある。
https://www.facebook.com/mitakadiversitycenter/posts/219045062919115
こちらのページから誰でもダウンロードできる! 翻訳に感謝します。さっそく読ませていただきました。


この章の最初の文章も衝撃的である。
「自分は人種差別主義者ではないと主張するリベラルな人よりも、自分は人種差別主義者だと宣言する人の方が対処しやすい。」

パブリックな空間で「自分は差別主義者だと宣言する人」がどんどん増えると、世の中は価値(公正)の基準すら失って無茶苦茶になってしまう。書店などに嫌韓嫌中本があふれ政治家もそれに影響されている日本社会は、それに近い状態になっている。
ただ、ミンデルが言っているのは彼が参加するワークショップなど一定の親密さを作り出せる空間、関係性内部での話をしているのだろう。

・善意の白人男性 謝罪しこれからは前向きに生きていく、宣言。
ミンデルは社会活動家にロールチェンジする。
ミンデルは彼に彼の特権性を忘れるべきではないと説く。マイノリティは差別から立ち去ることはできない。
彼は階級と経済の問題の重要性を忘れてないか、反問してくる。ミンデルはそれは認めた上で、再度話す。
「私たちは葛藤を乗り越え、二人とも心を深く動かされた。」p4
この場合はこのような相互関係にたどり着くことができた。しかし、私が見聞した限り、差別問題での話し合いでこのような感動や和解に至ることはめったにない、と思う。
差別問題とは、差別者と被差別者の非対等性である。したがって糾弾される側がいろいろ自分の感じたことを語ったとしても、そのような思いは無視されて当然なのだということになる。糾弾される側はまったく納得しないまま「形だけの謝罪」をすることになる。ところが「形だけの謝罪」では解決しないのだ。
ではどうすれば良いか?

この問題が解決に至った一つのポイントはミンデルが下記のような自分の体験を思い出したことにある。
「他の⼦供たちが私を醜い反ユダヤ主義的名前で呼び、暴⼒を振っ
たとき、私は⾃分がユダヤ⼈の家庭に⽣まれたことに初めて気づいた。⿊⼈の⼦どもたちは、路上のケンカで⾃分の⾝を守り、勝つ⽅法を教えてくれた。」
自己が差別されどうしようもなくなった体験、そしてその時黒人との友情にであったこと。さらに、ユダヤ人が黒人からは白人(差別する側)にも見られるということもこの白人に語りかける時有効に働いたかもしれない。反差別言説はしばしば雄弁である。しかしそれが抽象的な上から目線言説であるとき、他人の心を動かさない。

 

主流派だけが差別主義者になりうる。差別は意図的行為としてではなく、制度や経済的格差という完全に合法的な形で行使される。であるから主流派は自分が差別を犯しているとは気づかない。
これをどうしたら良いか?

ダイバーシティ・トレーニング」やポロティカルコレクトネスといったものもある。それは服についた染みをぬぐうように、露骨な差別的な言語の使い方を矯正する。しかしそれはこの社会において「下層と認識される人々を踏みつける傾向を見えなくしてしまうこと」になるだけではないか。

しかし、一方でわたしたちはつながりあっている。真っ裸な赤子として生まれまたそれに帰ることによって死んでいく。マイノリティと呼ばれるひとたちとのつながりのなかで生きてきたのだ。だから関係性を認識し、気づき(アウェアネス)を獲得し、差別を変質させていくことができる。

テロリストに非暴力を求めるな!

アーノルド・ミンデルの『紛争の心理学』講談社現代新書、はとても興味深い本だった。ちょっと引用、紹介したい。
テロリズムの特徴は、平等や自由を目的に、権力を持たないグループが主流派に対して攻撃することである。
主流派に対する手当たり次第で道理に合わないと思われている暴力は、実際には、自由のために闘う人々が苦しんできた傷を埋め合わせる試みである。その目的は、権力を持つ人々に社会変革の必要性を気づかせることだ。テロリストの観点からすれば、自分たちが傷つけたり殺したりする主流派の人々はすべて、無辜の犠牲者ではない。主流派の人々はすべて、たとえ消極的なだけだとしてもテロリストが闘っている抑圧に関与している。」(p157)

21世紀は「米国同時多発テロ事件」から始まったとされ、特に日本ではテロリズム=絶対悪という用語法しか許されない、人々の思考もその枠内で動いている気がする。しかし本来、ミンデルの言うとおり「政治的な目的を達成するために暴力および暴力による脅迫を用いる」という意味である。独立運動などもテロリズムから始まることが多い。1970年代アメリカ西海岸で発達したニューエイジ心理学といったもののなかから、ミンデルさんは出て来た方なのだろう。主流派の人々が支配するこの社会、ひととひとが対等に向き合っているように見えてもすでにさまざまな権力関係が埋め込まれていることを、に批判的に分析していく。
歴史とは大なり小なり動乱なのであって、自由のために闘う人々がテロリズムという手段を行使することはありうる。「テロリズムは文化変容の必要性がありながら、それが妨げられているときの時代精神である。」p154とミンデルは書いている。

「私のテロリズムの定義は、心理的な苦痛の原因となるグループ・プロセスにおける復讐を含む。過去の暴露や暴力的な脅かしは、この範疇に入る。
わたしたちはこのようなテロリズムをしばしば体験する。たとえば、ある異性愛の女性が、パートナーに「私の要求に答えてくれなければ、出ていくわ」といったとしよう。彼はこれをテロリズムとして体験する。彼女は、今にも関係を終わらせるような勢いで迫る。彼女は、相手が自分の欲求を大切にしてくれないと感じ、関係を破壊することだけが満足のいく目覚めをもたらすと考える。」

話が急に家庭内の関係、たぶん日本人でもよく体験するような、に移る。新聞のニュースになるような大きな政治的テロリズムと、小さな夫婦喧嘩が同質だと、ミンデルは真面目に考えている。
主流派男性が少数派の不満に耳をかさず、黙ったまま抑圧関係を持続させられると思っていたら、少数派は我慢ができなくなってテロリズムに訴えた、という話である点で同質性があるわけだ。

「意図的あるいは無意識的なランクの乱用」というものによって、「若者や女性、貧しい人や有色人種、高齢者、ゲイやレズビアン、「犯罪者」、虐待被害者」たちは、耐え難い抑圧の持続にさらされながら、それを虐待であると告発することができない。反応を禁じられて最後に暴力という形で表現することしかできなかった。したがってこのような場合、暴力的な反応に恐怖し、過剰防衛したり、法的に処罰を求めたり、スキャンダルとして社会の笑いものにしようとしたりするのは、まったく不適切な対応となる。

(さてここで「ランク」という言葉がでてくる。これはプロセスワーク理論にとって最も重要な概念。自分で気づいていないさまざまな特権やパワーを私たちはすでに持っているという考え方。社会的/構造的/文脈的/心理的/精神的など。)

個人が公正に闘うには、大きすぎ、強力で圧倒的な人々や集団によって、抑圧的な状況が作り上げられているのだ。そういったばあい、「テロリストは私たちみんなの中に現れる。」
主流派を乱し、脅かす、いわゆる「病理的、境界例的、精神病的」な人々は、実は、世界を変革する可能性を持っている、と考えるべきなのだ。

特に日本では調和が重んじられ、集団内部に対立を顕在化させることは極端に嫌われる。会議でさえ議論のない会議の方が良いとされる。まそれは、森喜朗氏の件で分かったように、既成の大ボスの権威を少しでも傷つけないという、ただの権力維持である。自由な意見交換を抑圧したことは、日本の経済発展にさえマイナスになったかもしれない。

民主国家はみなが平等であるという建前に立つ。異論があればそれぞれ発言すれば公正な議論によって公正な結論を得ることができることになっている。しかし実際は、少数派は自身の〈ランクの低さ〉によって自由に発言できない。絶望や抑うつ、憤怒といった問題に囚われている。それに対して、権力を持つ人々は、実は暗黙のうちに「おまえたちには耳を傾けたくない。おまえたちやおまえたちの問題は重要ではない。その問題と一緒に私からは離れていてくれ」という雰囲気を漂わせている。シグナルやジェスチャーや座る場所などで。
このようなちょっとした雰囲気の悪さといったものを、ミンデルは、〈ゴースト間の闘い〉として描写する。主流派のゴーストは「座れ、静かにしろ。誰がここに招いてやったんだ。云々」という。マイノリティのゴーストは「目覚めろ!お前は試されているんだ!おまえたちの家を爆撃するぞ。云々」と言う。

北アイルランド紛争の対立する当事者の集まりに招かれたミンデルは、最初やはりテロリストの側がたんに無作法であるかのように見えてしまっていた。
しかしそうではない。テロリストと呼ばれる彼らの怒りや傷つき、変容への欲求を理解しなければならなかったのだ。
ベルファストのある男性は、子供の頃、英国秘密諜報部員に父親が頭を撃たれるのを見た。彼は許すことができず大人になってテロリストになった。ある時牧師に話をすると牧師は彼の復讐心を理解した。心から同情的になったするとテロリストも変化した。

マイノリティに必要なものは、パン(経済的サポート)、自由、そして尊敬だ。しかし、主流派が彼らの悩みを推測し与えてやるということでは問題は解決しないだろう。そうではなく彼らに彼ら自身の問題を語ることを促すのだ。聞き手は、彼らの問題をオープンに取り扱うため、彼らを発見し支えようとし、そうであることを彼らの理解させなければならない。そうすれば解決は近づく。しかしその場で和解が達成されたとしても問題は解決したわけではない。不平等、不公正でない社会の達成は困難だ。

主流派も苦しんでいる。テロリストはある種の霊的ランクを有しているのだ。正義において、また死を恐れないという点で。
それをはっきり認識するのも大事なことであろう。しかし話し合いの現場ではたいてい、主流派がもっと包容力を示すことが、相互に変容していくことを促すことになっていく。

アーノルド・ミンデルの『紛争の心理学』という本の第6章を、書き写し的に紹介してみた。わたしにとって新しくまた貴重な考え方であると思ったからだ。
社会的・政治的な問題はそれ自身として解決すべきであり、心理的に解決すべきではない、というのは真実だと思う。しかし紛争/紛争解決は心理的問題でもあり、その時に、平和、安全、非暴力などを少数派に強要するだけでは問題解決にはならない。そのことを学ぶのは価値あることだと思った。(7.28一部修正)

金達寿の『玄海灘』を読んで

金達寿の『玄海灘』読んだ。
良い小説だと思う。
古くさい左翼あるいは民族主義的小説として、軽くあしらえるはずだという偏見があった。確かにこの小説は「古くさい左翼あるいは民族主義的」な志を肯定的に描こうとはしている。しかしそれを古くさいとして乗り越えた新しさ、そういう時代に私たちはすでに入っているというのは錯覚だった。現在はそのような新しい時代ではない。現に、来年は韓国においても新しいはずの文在寅後継政権はおそらく負けるだろう。日本に至ってはどこから見ても安物の独裁者安倍・菅が退場しそうにない状況だ。でも時代の新しさというものは、ファッションとかIT化とか表面的なもので決まる、その意味では充分新しいじゃないかといえば、そのとおりだ。
しかし「左翼あるいは民族主義的」思想と人間・文学の関わりという領域においては、80年間新しいものは登場しなかったのではないか。そう思いたくないがそういう気がする。

まあこの小説が批判しにくいのは、「左翼あるいは民族主義的」な志だけあってその具体的展開がほとんどゼロなところにある。金日成はあこがれの名前として、登場するだけで中身はない。活動を続ければ矛盾点がいっぱい出てくる。しかしそれが当然のことであるならば、それを批判したとしても、「左翼を否定できる新しいレベル」に立てたことにはならない。
私は長い間「反スタ」という言葉を大切にしてきた。ソフト・ハード含めたスターリニズムの総体を批判できない人に対して、その思想、実体化してしまっている何かを価値と勘違いし批判できないとしてしまう心性が批判されるべきだと考えてきた。それは正しかったと思う。
ただ、金達寿の場合は、この小説の場合は、組織なり思想なりが実体化するほど育っていない。したがって、その批判は届かない、ということが分かった。

『光州 五月の記憶』尹祥源(ユンサンウォン)評伝について

 『光州 五月の記憶』は、1980年の光州事件を、若くしてこの闘いに倒れた尹祥源(ユンサンウォン)の評伝という形で書ききったもの。この大きな事件を近付こうとするとき、比較的理解しやすい一つの方法だと思える。

 現在の全羅南道光州広域市光山区に 尹祥源(ユンサンウォン) は1950年に生まれた。二浪し1971年に大学入学。半端な気持ちを持て余し演劇部に入部。彼は新人でありながら「オイディプス王」の預言者テイレシアスの役になった。
 ところで、私(野原)もたまたま同じ年に大学入学し、演劇サークルに入った。わたしはその続編にあたる「アンティゴネー」で盲目の預言者テイレシアス(同じ人)のいざり車を引く童子の役になった。違った国、違った大学であっても同時期に同じようなことをしていたので、私は尹祥源をまんざら他人とは思えない気がした。どちらの芝居でもテイレシアスは台詞の多い難役であるが、童子は役というほどでもない端役。尹サンウォンは歴史に名を残すことになるが、私は(あえて言えば幸いにも)どんな劇的ドラマにも参加せず、「幸せな老後」を迎えようとしている。

 尹サンウォンは大学1年の時演劇部で活躍したが、二年に成らずに休学し令状を受け取り軍に入隊した。そして75年に復学した。彼は社会運動に目覚め、当局の厳しい監視を受けながら、狭い自室を開放しつつ熱心に学習会に参加した。彼は迷った末、卒業し銀行に就職する。収入など急に改善されたが、困窮のうちに生きる下層労働者や闘って弾圧される後輩たちと違った生き方を選択することができず、銀行を辞めてしまう。そして光州に戻り、工場労働者になったり、野火夜学という夜学に出会い、熱心に参加していくことになる。

1979.10.26、独裁者朴正煕は殺される。翌年春から民主化を求める民衆・学生の活動は各地で活発になった。5月14日から3日間、光州では全南大学生を先頭に大きな大衆集会が続いた。

5月17日、深夜までに金大中、高銀など民主化運動指導者と金鍾泌ら旧軍勢力を含めた多くの人が逮捕され、戒厳令が強化された。全斗煥のクーデターである。
18日朝、空輸部隊はいち早く全南大学を制圧していた。学生たちは二、三百人が正門前で抗議しようとしたが、兵士たちは棍棒を激しく振り下ろし流血の惨事となった。今までの警察のやり方とはレベルの違う残虐さだった。しかし、市中心部(錦南路)など場所を変えながら、学生たちは抵抗を続け市民もそれを支援した。
 
 空輸部隊の暴力はあまりに凄惨だった。「罪もない学生を銃剣で裂き殺し、棍棒で殴りつけてトラックで運び去り、婦女子を白昼、裸にして銃剣で刺した奴らは、一体、何者だというのでしょうか?」光州市民民主闘争回報。このビラを作ったのが尹サンウォンと彼の仲間の夜学グループだった。空輸部隊などの圧倒的暴力を見て、恐怖に震えながらも、市民たちは戦い続けた。

5月22日、驚くべきことに市全域から戒厳軍が完全に撤退した。
「粘り強い市民の武装闘争で勝ち取った自由光州解放区……、あれほど恐ろしく強大だった軍部の権力を、民衆の力で打ち砕いた解放光州……。この感激的な勝利をどう守っていくのか。」p180
重傷者への輸血のための献血者も殺到した。身元不明の遺体は道庁向かいの建物に整然と並べられ、家族たちが確認に訪れる(ハンガンの『少年が来る』に描かれた情景)。

しかし圧倒的強力な武力、国軍に包囲されているという絶望的情況は変わらない。この情況において、地元有力者らが「収拾方策」派として登場した。武器を回収し戒厳司令部に引き渡すしかない、というのだ。この主張を代表していたのが学生の金チャンギルであり、一時道庁のヘゲモニーは彼に握られる。

収拾派は言う「政治的、理念的話はしない。人道的、平和的に事態を収拾する。」しかし、ここでそれを了承すれば、死んだ者たちには「政治的、理念的」意味はなかったことになる。すぐに秩序は平穏に戻り、国軍の権威は100%保持されままになる。無垢の市民が殺されたことなどなかったことになってしまう。

5月26日午後、尹サンウォンは外国人特派員の前で会見を行う。
「光州市民と全南道民は、このような殺人軍部の蛮行に対して、蜂起したのです。空輸部隊を追い出すために、われわれは自ら武装したのです。誰かが強要したのではありません。市民が自分の命を守り、さらに隣人の命を守るために武装したのです。軍部のクーデターによる権力奪取の陰謀を粉砕し、この国の民主主義を守るために蜂起したのです。」
「私たち市民は、この事態が平和的に収拾されることを望んでいます。そのためには戒厳解除、殺人軍部クーデターの主役、全斗煥の退陣、拘束者の釈放、市民への謝罪、被害の実態究明、過渡的民主政府の樹立などの措置が必ずとられなければなりません。そうでなければ、私たちは最後の一人まで闘うつもりです。」p211

27日「今夜十二時までに武器を返納しなければ、市民の安全は保証できない」という戒厳司令部の最後通牒が発せられた。
28日午前2時ごろ、尹サンウォンらは最後の戦いのための体制を整えようと、武器庫で武器を配った。尹サンウォンはまず言った。「高校生は外に出ろ。われわれが闘うから、君らは家に帰れ。君らは歴史の証人にならなければならない」

「たとえ彼らの銃弾を受けて死んだとしても、それは、われわれが永遠に生きる道なのです。この国の民主主義のために、最後まで団結して闘いましょう。そして全員が不義に抗して最後まで闘ったという、誇るべき記録を残しましょう。」

日本の戦後民主主義は、ここまでの緊張関係を生み出すことはなかった。したがって「命を掛けて」という修辞はどうしても多少浮ついたもののようにわたしたちに感じられてしまう。
日本人は戦後新しい国家と憲法を手に入れ、それが保証している民主主義は大きなところでは揺るぎないものだとわたしたちは信じていた。しかし安倍・菅政権は少し様子が違う。コロナ対策でも合理的とは言えないgotoトラベル政策とかを強行し、支持されているわけでもないオリンピックを強行しようとしている。このまま憲法「改正」にならないとも限らない。わたしたちと国家の関係が破綻すれば、悪である国家を倒すために命を投げ出すという尹青年のような生き方をも、身近に想像することができるようにならなければならないのかもしれない。

尹サンウォン、鋭敏な彼は何らかの形で韓国も、十年二十年後は日本のようになる可能性も感じていたかもしれない。「たとえ彼らの銃弾を受けて死んだとしても、それは、われわれが永遠に生きる道なのです。」かれは文字通りそれを信じようとしただろう。だが自分より若い青年たちの前でそう言い、死に駆り立ててしまうこと、それは大きな痛みなしにはできないことだった。

戒厳軍が道庁内部に入ってきたとき、彼は道庁民願室二階の会議室で旧式カービン銃を持っていた。彼は腹部を撃たれ倒れ、絶命した。

これが10日間の光州事件(光州蜂起)と尹サンウォンの物語である。
暴力や革命について論じたい人は、我々に近い国、近い時代のこのような例も確認しておいた方がよい。

追記:『ニムのための行進曲」の作曲者(キム・ジョンニュル)による歌唱
https://www.youtube.com/watch?v=2e3EbYgSsGg
光州事件の犠牲者で市民軍の指導者ユン・サンウォンと1978年に不慮の事故で亡くなった労働活動家パク・ギスンの追悼(霊魂結婚式)のために制作された、とwikipediaにある。
(以上)