松下昇への接近

 旧 湾曲していく日常

『光州 五月の記憶』尹祥源(ユンサンウォン)評伝について

 『光州 五月の記憶』は、1980年の光州事件を、若くしてこの闘いに倒れた尹祥源(ユンサンウォン)の評伝という形で書ききったもの。この大きな事件を近付こうとするとき、比較的理解しやすい一つの方法だと思える。

 現在の全羅南道光州広域市光山区に 尹祥源(ユンサンウォン) は1950年に生まれた。二浪し1971年に大学入学。半端な気持ちを持て余し演劇部に入部。彼は新人でありながら「オイディプス王」の預言者テイレシアスの役になった。
 ところで、私(野原)もたまたま同じ年に大学入学し、演劇サークルに入った。わたしはその続編にあたる「アンティゴネー」で盲目の預言者テイレシアス(同じ人)のいざり車を引く童子の役になった。違った国、違った大学であっても同時期に同じようなことをしていたので、私は尹祥源をまんざら他人とは思えない気がした。どちらの芝居でもテイレシアスは台詞の多い難役であるが、童子は役というほどでもない端役。尹サンウォンは歴史に名を残すことになるが、私は(あえて言えば幸いにも)どんな劇的ドラマにも参加せず、「幸せな老後」を迎えようとしている。

 尹サンウォンは大学1年の時演劇部で活躍したが、二年に成らずに休学し令状を受け取り軍に入隊した。そして75年に復学した。彼は社会運動に目覚め、当局の厳しい監視を受けながら、狭い自室を開放しつつ熱心に学習会に参加した。彼は迷った末、卒業し銀行に就職する。収入など急に改善されたが、困窮のうちに生きる下層労働者や闘って弾圧される後輩たちと違った生き方を選択することができず、銀行を辞めてしまう。そして光州に戻り、工場労働者になったり、野火夜学という夜学に出会い、熱心に参加していくことになる。

1979.10.26、独裁者朴正煕は殺される。翌年春から民主化を求める民衆・学生の活動は各地で活発になった。5月14日から3日間、光州では全南大学生を先頭に大きな大衆集会が続いた。

5月17日、深夜までに金大中、高銀など民主化運動指導者と金鍾泌ら旧軍勢力を含めた多くの人が逮捕され、戒厳令が強化された。全斗煥のクーデターである。
18日朝、空輸部隊はいち早く全南大学を制圧していた。学生たちは二、三百人が正門前で抗議しようとしたが、兵士たちは棍棒を激しく振り下ろし流血の惨事となった。今までの警察のやり方とはレベルの違う残虐さだった。しかし、市中心部(錦南路)など場所を変えながら、学生たちは抵抗を続け市民もそれを支援した。
 
 空輸部隊の暴力はあまりに凄惨だった。「罪もない学生を銃剣で裂き殺し、棍棒で殴りつけてトラックで運び去り、婦女子を白昼、裸にして銃剣で刺した奴らは、一体、何者だというのでしょうか?」光州市民民主闘争回報。このビラを作ったのが尹サンウォンと彼の仲間の夜学グループだった。空輸部隊などの圧倒的暴力を見て、恐怖に震えながらも、市民たちは戦い続けた。

5月22日、驚くべきことに市全域から戒厳軍が完全に撤退した。
「粘り強い市民の武装闘争で勝ち取った自由光州解放区……、あれほど恐ろしく強大だった軍部の権力を、民衆の力で打ち砕いた解放光州……。この感激的な勝利をどう守っていくのか。」p180
重傷者への輸血のための献血者も殺到した。身元不明の遺体は道庁向かいの建物に整然と並べられ、家族たちが確認に訪れる(ハンガンの『少年が来る』に描かれた情景)。

しかし圧倒的強力な武力、国軍に包囲されているという絶望的情況は変わらない。この情況において、地元有力者らが「収拾方策」派として登場した。武器を回収し戒厳司令部に引き渡すしかない、というのだ。この主張を代表していたのが学生の金チャンギルであり、一時道庁のヘゲモニーは彼に握られる。

収拾派は言う「政治的、理念的話はしない。人道的、平和的に事態を収拾する。」しかし、ここでそれを了承すれば、死んだ者たちには「政治的、理念的」意味はなかったことになる。すぐに秩序は平穏に戻り、国軍の権威は100%保持されままになる。無垢の市民が殺されたことなどなかったことになってしまう。

5月26日午後、尹サンウォンは外国人特派員の前で会見を行う。
「光州市民と全南道民は、このような殺人軍部の蛮行に対して、蜂起したのです。空輸部隊を追い出すために、われわれは自ら武装したのです。誰かが強要したのではありません。市民が自分の命を守り、さらに隣人の命を守るために武装したのです。軍部のクーデターによる権力奪取の陰謀を粉砕し、この国の民主主義を守るために蜂起したのです。」
「私たち市民は、この事態が平和的に収拾されることを望んでいます。そのためには戒厳解除、殺人軍部クーデターの主役、全斗煥の退陣、拘束者の釈放、市民への謝罪、被害の実態究明、過渡的民主政府の樹立などの措置が必ずとられなければなりません。そうでなければ、私たちは最後の一人まで闘うつもりです。」p211

27日「今夜十二時までに武器を返納しなければ、市民の安全は保証できない」という戒厳司令部の最後通牒が発せられた。
28日午前2時ごろ、尹サンウォンらは最後の戦いのための体制を整えようと、武器庫で武器を配った。尹サンウォンはまず言った。「高校生は外に出ろ。われわれが闘うから、君らは家に帰れ。君らは歴史の証人にならなければならない」

「たとえ彼らの銃弾を受けて死んだとしても、それは、われわれが永遠に生きる道なのです。この国の民主主義のために、最後まで団結して闘いましょう。そして全員が不義に抗して最後まで闘ったという、誇るべき記録を残しましょう。」

日本の戦後民主主義は、ここまでの緊張関係を生み出すことはなかった。したがって「命を掛けて」という修辞はどうしても多少浮ついたもののようにわたしたちに感じられてしまう。
日本人は戦後新しい国家と憲法を手に入れ、それが保証している民主主義は大きなところでは揺るぎないものだとわたしたちは信じていた。しかし安倍・菅政権は少し様子が違う。コロナ対策でも合理的とは言えないgotoトラベル政策とかを強行し、支持されているわけでもないオリンピックを強行しようとしている。このまま憲法「改正」にならないとも限らない。わたしたちと国家の関係が破綻すれば、悪である国家を倒すために命を投げ出すという尹青年のような生き方をも、身近に想像することができるようにならなければならないのかもしれない。

尹サンウォン、鋭敏な彼は何らかの形で韓国も、十年二十年後は日本のようになる可能性も感じていたかもしれない。「たとえ彼らの銃弾を受けて死んだとしても、それは、われわれが永遠に生きる道なのです。」かれは文字通りそれを信じようとしただろう。だが自分より若い青年たちの前でそう言い、死に駆り立ててしまうこと、それは大きな痛みなしにはできないことだった。

戒厳軍が道庁内部に入ってきたとき、彼は道庁民願室二階の会議室で旧式カービン銃を持っていた。彼は腹部を撃たれ倒れ、絶命した。

これが10日間の光州事件(光州蜂起)と尹サンウォンの物語である。
暴力や革命について論じたい人は、我々に近い国、近い時代のこのような例も確認しておいた方がよい。

追記:『ニムのための行進曲」の作曲者(キム・ジョンニュル)による歌唱
https://www.youtube.com/watch?v=2e3EbYgSsGg
光州事件の犠牲者で市民軍の指導者ユン・サンウォンと1978年に不慮の事故で亡くなった労働活動家パク・ギスンの追悼(霊魂結婚式)のために制作された、とwikipediaにある。
(以上)

〈現状態に対する本源的拒否〉の思想

黄晳暎(ファンソギョン)の小説を何冊か読んでかなり好きになったので、黄晳暎論でも読もうかと思って図書館を探すと、金明仁(キムミョンイン)という人の『闘争の詩学』副題が「民主化闘争の中の韓国文学」という本があったので借りて見た。第7章が黄晳暎論である。つまり軽い気持ちで借りたのだが意外と真剣に読み込まなければという気になってきた。

この本の後ろには14ページにも渡る「韓国民主化関連年表」が添付されている。批評家の本としては異例のことだという気がする。日本でも全共闘運動のころまでは、新日文、近代文学などなど、左派運動(政治)と関わりのあった文学運動はあったが、それ以後はむしろ政治的なものの一切をタブーとするかのような文学観に支配されているようだ。
それに対して、明仁は、こう語る。「私にとって文学は世の中を変える方法や道具の一つですが、1980年代の韓国文学はまさにそのようなものでした。*1

「私にとって文学は世の中を変える方法や道具の一つ」という言い方は反発を呼びそうだが、ゆるやかな意味ではそれほどおかしな意見ではない。
民族=国家が成立していないために、まずもってそれを追求することが、文学にとっても課題にならなければならない。そういうことは理解できることだ。1945年の光復以後は、まずネーションが模索された。それ以後も独裁の否定、民主化の達成は文学の課題でもあった。
「世の中と対抗することの美しさを示し、今とは異なる世の中をみちびく熱い啓示でぎっしり埋まった文学」こそが、もっとも美しい文学であり追求されるべき価値であるという、初心を明仁は数十年経っても捨てていないようだ。
それは時代遅れの文学観に感じられる。ただそれだけでは批判にはならない。

韓国では〈学生を中心とした激しい反政府活動(デモなど)による独裁の崩壊→(束の間の春)→軍事クーデター〉という波が、戦後史において三度起こった。
A 60.4.19→5.16 朴正煕独裁へ
B 79.10.26→80.8.27 全斗煥大統領へ
C 87.6.10→12.16 盧泰愚が大統領に選出される
(D 2016-2017.3月 ろうそく革命は勝利に終わった例外 )

C 87.6.29民主化宣言で長年の軍事独裁体制は崩壊した。しかし、明仁は「重要なのは労働者階級の動向だ」と考えていた。7,8月から切望された労働者大闘争が始まった。毎日のように民主労総結成闘争のニュースが聞こえてきた。しかしその本質は結局単に労働現場におけるもう一つの民主抗争にすぎず、労働法改正などで一定の権利を獲得するや、その生命力を減じていった。*2

そして、三度目は軍事クーデターではなく、大統領直接選挙による民主主義的な選出(平和的政権交代)で終わった。「1987年を契機に韓国社会は、軍部クーデターという後進国型政治変動との断絶に成功した*3」という点では画期的だった。

しかし、全斗煥の協力者であった盧泰愚の勝利に終わったという結果は、明仁にとって限りなく苦いものであった。
70年代後半以降の民主化運動の長い歴史、光州以後のそれでもつむがれた夢、「労働者階級が主人となる近代的国家」への夢、それは〈統一〉も含むものであり、全的な解放をなんらかの形で実現すべきものだった。その夢は裏切られた。選挙という民主的方法によって裏切られたことは、彼らにとって自分の思想を一部変更せざるをえないほどショックなことだった。
明仁たちは観念的過激化し、北朝鮮の主体革命理論か、速戦即決的なボルシェヴィズムに傾いた。死への傾斜をも孕んだものだったと言えるだろう。同時に、東欧社会主義国の崩壊があった。

韓国におけるB79年からC87年の経過は、日本の60年安保から68_9年大学紛争の経過に類似するようにも思う。
そうすると、明仁たちは「観念的過激化」は、70年代始めの赤軍派東アジア反日武装戦線の空気に似ている(だろう)。

「わたしたち」はすでに内的解体の危機をかかえていたので、運動は急速にしぼんでいった。明仁は「民衆的民族文学」という批評的準拠を持ち、基層民衆の文学的・文化的解放のための実践を模索していた。しかし常に観念が先んじて現実と交差しえなかった。(p45)
明仁にとって、文学・思想は政治的活動と一体のものであったから、挫折は全身的なものであっただろう。明仁は「運動」と関係を断ち、大学院にいわば亡命した。それぞれが生きる道を探しに出た。そして、共同体的な連帯や規律などを捨て、個人になることで、90年代の新しい社会へ入っていった。

このような「いわば亡命」の過程は、(全共闘体験からの)高橋源一郎加藤典洋笠井潔といった人々も経ているものだろう。明仁の場合が、今までの左翼性・全体への夢を捨てないという点で、またまずそのプロセスを明らかにしようとする誠実さという点で、もっとも分かりやすいかもしれない。

 

 1980年代には金明仁のような左派的文学が主流だったのだが、90年代には個人主義的文学の時代になった。「わたしたちは近代を生産するはつらつとしたブルジョア的個人を持つ機会*4」がなかった、と明仁は述べる。だから「1990年代以降の個人の発見、あるいは発現は、このような点から見れば「抑圧されたものの回帰*5」としての切迫性があると思う」と続く。
 「個人」とは何らかの抑圧的集団性からの脱出を意味するだろう。それは「抑圧的な軍事独裁体制と国家独占資本体制が作り出した「国民」という全体主義的集団性と、その全体主義に対して戦う過程で形成された「民衆」という集団性、その異質な二つからの脱出という契機をもったものであるはずだ。*6
 「しかし、国民であることは十分に克服されず、民衆であることは十分に実現されえなかったから」、「目覚めた主体としての個人」は成立しなかった。新自由主義的市場体制と言う支配のなかでの、孤立した労働者かつ消費者としての「単子」的存在となったにすぎなかった。 *7 孤立した労働者かつ消費者としての孤立した存在というのは日本でも同じですね。

 抑圧的な軍事独裁体制からの抑圧を考えるとき、日本では次のような例がある。1933年の小林多喜二の死。それから十年以上後の、1945年8月9日の戸坂潤と一ヶ月後9月26日の三木清の死。45.8.15は彼らを抑圧した軍国主義の終わりであることは明らかだった。三木は影響力のある作家だった。だのに誰もの彼を奪還しに来なかった。彼らと民衆との連絡はすでに途絶えていたのだ。三木たちは敗戦は予感できただろうから混乱後の日本に希望が持てたなら、なんとしても生き延びようとしたのではないか。彼らが死んだのはすでに絶望しか持っていなかったから、民主化後の日本に対しても、ということが言えるだろうか。そうは思いたくないが、戦後70年の民主化の敗北後の日本においては、そういう思いもある。

 70年代から87年までの独裁政権から民主派青年たちに対する弾圧は、日本の上記のような弾圧以上に激しいものであった。最大の虐殺は2万人近く(?)殺された1980年光州事件だった。これは限りなく痛ましい事件だ。しかしそれは民主化運動が学生やその周辺のインテリだけでなく多くの民衆を巻き込んだ巨大な運動になったからこそ可能になったのだとも言える。日本の60年安保もデモに参加した人数などでは負けてはいない、しかし死の危険性ある抵抗運動に果敢に立ち上がるといった点で、つまりその思想的深さにおいてかなり及ばないものだった。
 過激な運動ができるから偉いとかそういうことではないが、権力の暴力に向き合う腹の座り方については、やはり日本はまだまだと言うしかなかろう。2011年以降、反核など市民運動はそれなりに盛り上がったがやはり2,3年で下火になった。そこにも同じ弱さがあったと言えるだろう。
 「私は元気でない国の一知識人として、それよりもはるかに元気でなくなってしまった隣国のみなさんに、言葉にならない憐憫と連帯感を感じるようになりました。*8」金明仁は、日本人が怒るだろう「憐憫」ということばをあえて使って、連帯感を表明している。

 さてもう一つの問題、その全体主義に対して戦う過程で形成された「民衆」という集団性からの脱出という契機とは何だろう。
そこには一つには、大衆の反政府闘争の主体が、依然として学生や知識人、在野勢力中心の人々でしかなかったという問題がある。「労働者階級を含めた基層の民衆が、自らの利害関係を越える政治的覚醒*9」をなしうるかどうか、それが問題だと金明仁には思われた。AもBも労働者階級の組織的闘争につながらなかった、だから失敗した、と明仁マルクス主義者らしく考えていた。
 7,8月から切望された労働者大闘争が始まった。毎日のように民主労総結成闘争のニュースが聞こえてきた。しかしその本質は結局単に労働現場におけるもう一つの民主抗争にすぎず、労働法改正などで一定の権利を獲得するや、その生命力を減じていった。*10 資本家階級は労働者階級が革命的に転換することをギリギリ抑制させる程度の何かを労働者に与えることはできる。したがってほんとうの意識変化にはたどり着かない、これが金明仁の判断だった。

 「抵抗する集団性」をどう克服するか考えるときに避けられないもう一つの問題は、南北問題である。光復から朝鮮戦争の時期、民族を回復しようとする運動に参加していった人の圧倒的多数は左派系の人々だったので、彼らの多くは越北した。であるにも関わらず北の共和国はその人びとの思想と努力を活かすことができず、逆に国家首領独裁体制に対する異分子として抑圧され続けた。にも関わらず、南の絶対的反共国家のなかの抵抗者である民主派の人びとは北の実像を知ることもできず、心のどこかで本来の共和国の栄光という幻を保存し続けた。金明仁のこの本はそのような事情は良かれ悪しかれ全く書かれていない。*11



 新しい「市民運動」。「人権、女性、環境、教育、消費者、多様な形態の政府監視など、いわゆる非政府機構の運動や多様な形の市民キャンペーン運動」が生まれ、過去の「民族民主運動」に取って替わっていった。
 「この運動は1990年代序盤の「呪われた転換期」を過ごす間、私たちが陥っていた虚無と冷笑、無気力と精算主義を身軽に越えて、支配ブロックの一方的な独走に対する牽制体制を構築した」意義ある運動形態だったと評価しうる。

 これは、日本では2011以降のたとえば、シールズ(自由と民主主義のための学生緊急行動・SEALDs)などと同質なものであると理解できる。限定された主題に対する明確な獲得目標、優れたデザイン感覚によって大衆の支持を獲得する、自己組織内の意思決定過程の透明化など、民主主義的で平明な感覚は人気を呼んだ。本書などによれば、韓国では20年以上前から着実に育ってきているものだったようだ。
しかし、それは資本家階級の究極的支配とヘゲモニーに挑戦するという問題意識がない。階級運動ではない市民社会運動だ。革命運動ではなく改良運動だ。権力の獲得を目的としないという点で政治運動でもない、と金明仁は指摘する。

 ところで、80年代の運動が「権力獲得を目的にした革命的階級運動」だったか、というと実はそうも言い切れない。それは情緒的・観念的には過激だったが、本質上民主化運動に過ぎなかった。だから民主化を果たした後に、より「クール」な市民運動へと転換していくのは自然なことだった。*12しかし、その夢想のなかには強力な力があった。それは現状態に対する本源的拒否の力である。人間が人間を搾取して疎外する世の中の土台と上部構造全体を総体的に変革すべきだという、非妥協的な精神の力がその核心にはあった。1990年代以降の市民運動にはこのような力が欠けている。*13その場合市民運動と労働運動は、永遠にブルジョア支配社会の周辺部的な付属物であるにすぎない。

 新自由主義とは、「資本の運動を阻むすべての障害や境界を撤廃し、人間と地球に属するすべてのものを商品化し植民化し搾取*14」するシステムである。そして「無限開発と無限競争」という考え方だけが唯一の真実であると強力に宣伝することを伴う。日本では服従原理主義を内面化しないと、おおむねどんな仕事にもつけない。そのように、このようなすべてのことはほとんどまるで「世の中の法則」であるかのように受け入れられてしまっている。

 半分疑いながらもそうした宣伝を少しは受け入れざるをえないわたしたちにとっては、〈現状態に対する本源的拒否〉という思想はまったくありえないものとしてある。現代日本においてはもはやそれを見つけることすら難しい思想として、それはある。であるので、この文章を読んだ時、わたしはタブーを破ったような罪悪感とともに、びっくりしたのだ。

 それにしても、〈現状態に対する本源的拒否〉という思想を肯定しても良いものだろうか。わたしたちは現体制なかで生まれ育ち教育をされ、雇ってもらっているのであれば、そのような全体に対するNONというものは論理的にありえないのではないか。「人間が人間を搾取して疎外する世の中」自体を根底から変革することができるとマルクスは言った。それが正しいかどうかは私は分からない。それでも社会の分かりやすい不正や矛盾すら現体制は是正してくれない。そうだとすると現体制で通用する理屈を越えて正義をそこに要求していくことは正しいことだと思う。
 要求をすることは正しい。しかし、〈本源的拒否〉とはなにか。

 全世界に目を向けると、「反グローバリゼーション、下からのグローバリゼーション、反米運動、エコフェミニズム、マイノリティ運動、再解釈されるアナーキズムトロツキズムなど、「現状態」を越えるための世界的レベルの理論的・実践的努力」がさまざまに存在している。
 わたしたちはともすれば勘違いしてしまっているが〈現状態〉は決して一枚板の変えがたいものとして世界に君臨しているわけでない。学校、職場、知識その他さまざまな諸力のがまず、「私」自身を作りた、そうした多くの個人が動かしがたいかの秩序として現象する。さまざまな方角からそれを揺るがそうとすることはできる。

 この世の中は構造的に絶対多数の不幸と絶対少数の幸福を生産する世界だ。それが確かなら、私は世の中に同意できない。こんな世の中のために、あのように長年獄中で苦労してきたわけではない。と明仁は言う。
 そうではなく、覚醒した個人の主体性を堅持しながら、人と人の間、人とすべての生命の間の共同体的な連帯意識をふたたび回復することはできる。「人間も他の生きとし生ける物も、自らの生と他者の生の自由と解放を獲得するまで戦わなければならない。*15」と明仁は言う。

 この世界の外部はない。なぜならわたしたちは事実上、この犯罪的世界の共謀者だからである。と明仁は一旦言い切る。そして次に「しかしこの世界の外部はある。わたしたちは常に懐疑し省察して、他の世界を夢見る存在だからである*16」と彼はそちらの方を強調する。
「はてしなくこの世界の外部を思惟し、他の世界に思いを致さないかぎり、またこの世界を自分自身の内部から拒否しないかぎり、この世界は絶対によくならないからである。*17」と、明仁は最後に言い切る。

 私たちは「はてしなくこの世界の外部を思惟する」ことができる、これは認めることができる。それでは世間に通用しないよ、と言われるだろうか?反抗の根拠は別にどこかの条文とかそういうところに存在する必要はないのだ。〈幻のコミューン〉といったもののリアリティがそこにあるだけでもよい。自己身体の叫びといったものでも良い。
 〈現状態に対する本源的拒否〉は存在する。ただ、そこからすべてのものが流出する〈幻の党本部〉のごときものであってはならないだけだ。
(以上 6/13一部訂正)

*1:同書p8

*2:同書p41

*3:同書p25

*4:p47

*5:p47

*6:p47

*7:p48

*8:同書p7

*9:p38

*10:同書p41

*11:p228に、黄晳暎の『客人』について「分断克服という顕在的課題に対する一つの、歴史的であると同時に美学的回答」と書かれてあるだけだ。

*12:p50

*13:p50

*14:p51

*15:p54

*16:p55

*17:p55

雑誌文藝 特集 韓国・フェミニズム・日本

去年の秋に出た、雑誌文藝の特集「韓国・フェミニズム・日本」短編を少しだけ読んでみた。

韓国人作家の紹介だけでなく日本人作家と半々になっている。日本人作家には、日本人の韓国認識の歪み、不思議さの底部を問おうとする作品が多い。さすが文学者。

2つの短編をとりあげ断片的感想を書いておこう。悪文なので書き直せれば削除する。
西加奈子「韓国人の女の子」
「だからアメリカの傀儡政権だった韓国ではなく、朝鮮籍を選んだ。それはすなわち北朝鮮籍なのだけど」というのは、誤りであり、激しく糾弾される可能性がある言葉使いだ。西はそのような政治的葛藤とは別のレベルに、朝鮮戦争の傷などどこにもないはずのおしゃれな現代青少年の実存の底になお、(北)朝鮮/韓国/日本という亀裂が存在する(発見されることがある)ことを描いた。

 

高山羽根子「名前を忘れた人のこと」
韓国人かどうかはっきりしないあるアーティストが「私はtorture を受けたことがある」とふとつぶやいた。torture は拷問という意味らしい。1980年代くらいの時期であるなら(作中に表題が引かれているタクシー運転手や弁護人の時期なら)、その韓国軍事政権による拷問だろう。「たんに無知だったからだ。自分が彼の加害者である、あるいは加害者の集団に属している可能性をもったまま」云々というのは、まあ「考えすぎ」である。
無知:「表面上は無実に思える弱さと無知とわずかのやさしさ」で成り立っている「知らないでいようとすること」。政治的責任追求とは別のレベルで、かすかな文学的糾弾がなされる。
わたしのように、従軍慰安婦などに興味を持ち続けてきた人でも、光州事件(民衆抗争)以降の民主化運動からろうそく革命まで激動の歴史を深く知ろうとしてこなかった。それが何故だったのかはこれから問われる必要がある。全面的に嫌韓派に影響されたマスコミとネット情勢に抗するという課題とともに。

(いったん公開するが、さすがにこれは書き直そう)

 

 

 

コロナに乗じて不当な利益を得ようとする奴ら

コロナ騒動を、co2削減という面から見ると、グレタさんとかが必死で叫んだけれども、絶対に到達できなかった削減目標があっさり達成されていると言える。
安冨歩さんが彼の動画でおっしゃっていたことなのだが)

つまり現在の形での文明のスタイルが、資本主義、医療、文明の崩壊という形を取らなくても、大きく変わることが可能であることが示された。
つまり毎日毎日「学校に行かなければならない」「会社に行くなければならない」という常識と習癖にとらわれた人生を続ける必要はないということだ。

ではどうしたら良いか。一挙に社会は変わらない。学校や会社に行かないようにしても逆に困ることもあるかもしれない。ただ、例えば週1回くらい行かずに自宅研修します、といったことがどんどん起これば、そうしたことを許容する社会になっていくだろうし(それで十分やっていけることが分かったから)、そうしないといけない。
というのは、混乱期、情報の閉鎖を利用して自分たちだけが金儲けしようとする思想が、大きな顔をしているのだ。竹中平蔵経産省というものに象徴される勢力である。
それは具体的には、「サービスデザイン推進協議会」や「スーパーシティ構想」にあらわれている。

https://note.com/tokyodistillery/n/n6564a5ecf2a3

 以下
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/tiiki/kokusentoc/supercity/setsumei_naikakufu.pdf

上記ブログ記事に詳しいが、サービスデザイン推進協議会というのは電通パソナが設立したもので、持続化給付金の給付作業が委託されている。国から七百六十九億円の委託料が払われている。元公務員の感覚ではこのような生活に関わる給付の審査というこそ、公務員がやるべきことだと思うのだが違うのか。で、うまく行かず給付が遅れているようだ。
大利権を不正に私するために、むりやりわけの分からないシステムを作っているから、給付すら満足にできないのではないか。

マイナンバーカード関係のシステムが上手く行かないのも、同じ原因だろう。
そもそも、特別定額給付金事業に普及率が十数パーセントしかないマイナンバーカードをかませようという計画自体、合理性を欠いた案であり、マイナンバーカード推進やその他の別の思惑がある勢力が推進したものにすぎない。

マイナンバーカード関係なしに、シンプルに給付システムを作ろうとすれば、わりと容易にできるようだ。
加古川市の職員が作っている。
特別定額給付金にかかる加古川市版オンライン申請システム - データセット - 加古川市オープンデータAPI

 

これが簡単に実現できたのは、ある会社の業務アプリ開発プラットフォームと別の会社の申請フォームを利用したからだ。今の時代、他社ソフトウェアやオープンソース等を利用して、システムを迅速、安価に作って行くのは、IT業界の一部では当然のことである。
しかしながら、従来からの巨大SIなどはなんのかんの理屈をつけて無用な独自ソフトにして無駄に大金を取りたがるものなのか。私は業界のことは分からないがそういうことがあるんじゃないかと思う。

クールなシステム設計と利権の実現は相反する。日本の行政はむかしから指導すべき業界やいくつかの企業とほとんど癒着しながらやってきた。ただこの間、パソナ電通、ベネッセとかとの癒着関係は露骨になってきているようだ。

この20年間のIT革命に日本企業がどうしても乗り切れず、落ちこぼれていったのは、骨身をけずって大胆な勝負などしなくても、霞が関と癒着していればそれなりに利益は得られる構造になっていたからだろう。
逆に言えば、そのような不正なしには企業も存続できないのか。
そのあたりはよく分からない。しかし役所の仕事を民間委託する以上、合理的できれいなシステムをつくり、迅速に結果を出さなければならない。利益を過剰に貪ることもあってはならない。
持続化給付金配布事業委託については、その両方の項目で明確にダメだったと言えるのだろう。安倍首相の退陣を求める。

慰安婦像のどこがいけないのか?

小熊氏への回答
1,「なぜ大使館の安寧が、慰安婦像で乱されるの?」
乱されていない。乱されているのはあなたの頭の中だ。
2,「慰安婦像そのものが問題なんだ」
はい。その問題とは何かな?
「大使館前以外なら問題ないという理屈」はどこにあるのかな?
安寧を乱す効果は慰安婦像にはありませんね?
3,『慰安婦像が日本国民の心を踏みにじる』
踏みにじりませんね?
4,「そう思う日本人がいるなら、正しいというしかない」
そう思う日本人はすべてクソだから、何億人いようが日本人とは呼べない。
5,慰安婦像そのものが問題である根拠を子熊は一切提出できない。
(終わり)

 

 

 

https://twitter.com/Pooh_advanced/status/1157433684506529793
排除の「法的」根拠は大使館の安寧ね。
それは君も事実として扱うしかないね。

なぜ大使館の安寧が、慰安婦像で乱されるの?
前にそう書いて、貴方は答えなかったね。
問題はそこよ。

その理由が、大使館前以外の慰安婦像からは
消えるようなものでないのなら、
慰安婦像そのものが問題なんだよ。
small bear @Pooh_advanced

 

大使館前というのは
法解釈上、ジュネーブ条約を使ってるから
そういう話をしてるだけで、
大使館前以外なら問題ないという理屈ではないよ。

大使館前とか関係なく、安寧を乱す効果が
慰安婦像にあるのなら、
明確な法とかがなくとも
公共の場にあることが非難されても
まったくおかしくはない。

 

河村氏の主張

慰安婦像が日本国民の心を踏みにじる』

というのなら、それは

『大使館前に慰安婦像が設置されたなら安寧を乱す』

という説明に十分なるね。
だとしたら、慰安婦像そのものが不適切な存在と
いえるよ。

 

ああ、

慰安婦像が日本人の心を踏みにじる』

の真偽の話をしておこうか。
それは、そう思う日本人がいるなら
正しいというしかない言葉だよ。

野原くん一人がそう思わないと主張しても
少なくとも河村氏はそう思ってるし
賛同する人間がいるならそれは正しいんだよ。

三一独立宣言書


我等ハ玆ニ我朝鮮ノ獨立國タルコト及朝鮮人ノ自由民タルコトヲ宣言ス此レヲ以テ世界萬邦ニ告ケ人類平等ノ大義ヲ克明シ此レヲ以テ子孫萬代ニ誥ヘ民族自存ノ正權ヲ永有セシム半萬年歷史ノ權威ニ仗リテ此ヲ宣言シ二千萬民衆ノ忠誠ヲ合シテ此ヲ佈明シ民族ノ恒久一ノ如キ自由發展ノタメニ此ヲ主張シ人類的良心ノ發露ニ基因シタル世界改造ノ大機運ニ順應併進センカタメ此ヲ提起スルモノナリ是レ天ノ明命時代ノ大勢全人類共存同生權ノ正當ナル發動ナリ天下何物ト雖モ此ヲ阻止抑制シ得ス

舊時代ノ遺物タル侵略主義强權主義ノ犧牲トナリテ有史以來累千年初メテ異民族箝制ノ痛苦ヲ甞メテヨリ玆ニ十年ヲ過キタリ我生存權ノ剝喪シタル凡ソ幾何ノ心靈上發展ノ障礙タル凡ソ幾何ノ民族的尊榮ノ毀損タル凡ソ幾何ノ新銳ト獨創トヲ以テ世界文化ノ大潮流ニ寄與補裨スヘキ機緣ヲ遺失シタル凡ソ幾何

噫舊來ノ抑鬱ヲ宣暢セムトセハ時下ノ苦痛ヲ攏脫セントスル將來ノ脅威ヲ芟除セントセス民族的良心ト國家的康義ノ壓縮銷殘トヲ興奮伸張セントセハ各個人格ノ正當ナル發達ヲ遂ケントセハ可憐ナル子弟ニ對シ苦恥的財產ヲ遺與セサラントセハ子子孫孫永久完全ナル慶福ヲ導迎セントセハ其最大急務ハ民族的獨立ヲ確實ナラシムルニアリ二千萬各個各人カ方寸ノ刄ヲ懷ニシ人類ノ通性ト時代ノ良心カ正義ノ軍ト人道ノ干戈トヲ以テ護援スル今日吾人ハ進ンテ取ルニ何ノ强力挫ク能ハサル退イテ作スニ何ノ志カ展シ能ハサラン

丙子修條好規以來時時種種ノ金石盟約ヲ喰ミタリトシテ日本ノ信ナキヲ罪セントスルモノニ非ス學者ハ講壇ニ於テ政治家ハ實際ニ於テ我祖宗世業ヲ植民地視シ、我文化民族ヲ土味人過シ專ラ征服者ノ快ヲ貪ルノミ我カ久遠ノ社會基礎ト卓犖セル民族心裡トヲ無視スルモノトシテ日本ノ少義ナルヲ責メントスルモノニ非ス自己ヲ策勵スルニ急ナル吾人ハ他ヲ怨左スルノ暇ナシ現在ヲ綢繆スルニ急ナル吾人ハ宿昔テ懲辨スルノ暇ナシ今日吾人ノ任スル所ハ只タ自己ノ建設アルノミ決シテ他ヲ破壞スルニアラサルナリ嚴肅ナル良心ノ命令ニヨリテ自家ノ新運命ヲ開拓セントスルモノナリ決シテ舊怨及一時的ノ感情ニヨリテ他ヲ嫉逐排斥スルモノニ非サルナリ舊思想舊勢力ニ覉靡セラレタル日本爲政家ノ功名的犧牲タル不自然ニシテ又不合理ナル錯誤狀態ヲ改善醫正シテ自然ニシテ又合理ナル正經ノ大原ニ歸還セムトスルモノナリ當初民族的要求ニ出サリシ西國併合ノ結果カ畢竟姑息的威壓差別的不平、及統計數字上ノ虛飾ノ下ニ於テ利害相反セル兩民族間ニ永遠ニ和同スル能ハサル怨溝ヲ益益深カラシムル、今來ノ實積ヲ觀ヨ勇明果敢ヲ以テ舊誤ヲ廓正シ眞正ナル理解ト同情トヲ基本トスル好友的新局面ヲ打開スルコトカ彼此ノ間遠禍召福ノ捷徑タルヲ明知スヘキニ非スヤ又二千萬含憤蓄怨ノ民ヲ威力ヲ以テ拘束スルハ營ニ東洋永遠ノ平和ヲ保障スル所以タラサルノミナラス此ニ因ツテ東洋安危ノ主軸タル四億萬支那人ノ日本ニ對スル危懼ト猜疑トヲ益益濃厚ナラシメ其結果トシテ東洋全局ノ共倒同亡ノ悲運ヲ招致スヘキハ明ナリ今日吾人ノ朝鮮獨立ハ朝鮮人ヲシテ正當ナル正策ヲ遂ケシムルト同時ニ日本ヲシテ邪路ヨリ出テテ東洋ノ支持者タル重責ヲ全フセントシ支那ヲシテ夢寐ニモ免レ能ハサル不安恐怖ヨリ脫出セシメントシ又東洋平和上重要ナル一部ヲナス世界平和人類幸福ニ必要ナル階段タラシメントスルモノナリ是レ豈區區タル感情上ノ問題ナラムヤ

鳴呼新天地ハ眼前ニ展開セラレタリ威力ノ時代ハ去リテ道義ノ時代ハ來レリ過去全世紀鍊磨長養セラレタル人道的精神ハ方ニ新文明ノ曙光ヲ人類ノ歷史ニ投射シ始メタリ新春ハ世界ニ來リヲ萬物ノ回蘇ヲ催進シツツアリ凍氷寒雪ニ呼吸ヲ閉蟹シタリシモノ彼ノ一時ノ勢ナリトセハ和風喛陽ノ氣脈ヲ振舒スルハ此レ一時ノ勢ナリ天地ノ復運ニ際シ世界ノ變調ニ乘シタル吾人ハ何等ノ躊躇ナク何等ノ忌憚スヘキナシ我固有ノ自由權ヲ讀全シ生旺ノ樂ヲ飽享スヘク我自足ノ獨創力ヲ發揮シテ春滿テル大界ニ民族的精華ヲ結紐スヘキナリ

吾等ハ玆ニ奮起セリ良心ハ我ト同存シ眞理ハ我ト併進ス男女老少陰鬱ナル古巢ヨリ活潑ニ起來シテ萬彙群衆ト共ニ欣快ナル復活ヲ成遂セントス千百世祖ハ吾等ヲ陰佑シ全世界ノ氣運ハ吾等ヲ外護ス著手ハ卽チ成功ナリ只前頭ノ光明ニ向ツテ併進スルノミト云爾

 

公 約 三 章

一、今日吾人ノ此擧ハ正義人道生存尊榮ノタメニスル民族的要求ニシテ卽チ自由的精神ヲ發揮スルモノニシテ決シテ排他的感情ニ逸走スヘカラス
一、最後ノ一人迄最後ノ一刻迄民族正當ナル意思ヲ快ク發表セヨ
一、一切ノ行動ハ最モ秩序ヲ尊重シ吾人ノ主張ト態度ヲシテ飽ク迄光明正大ナラシムヘシ

朝鮮建國四千二百五十二年三月一日 朝鮮民族代表

 

ソース:https://ja.wikisource.org/wiki/%E5%B7%B1%E6%9C%AA%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E5%AE%A3%E8%A8%80%E6%9B%B8

以上メモとして。

 

 

金時鐘「化身」について

金時鐘『化石の夏』のなかの一篇「化身」

かりに蛹から抜けきれなかった蝶がいたとして
小枝でそのまま乾いているとしても
翅はしだいに半身のまま風となれあっていき
あたりに飛翔を花粉のように弾き散らしながら
羽裏のあわいでさらされているだろう

だから蝶のかけらは
もはや蝶であることを願おうとはしない
舞いも装いもすべては自ら手放してしまったものだ
揺れるがままにそこのところで在りつづけ
ただただ己れの入定を見つづけようとする

威儀を正した標本の陳列からも
子どもがかざす捕虫網の情緒からさえも
飛翔の化身はかたくなに口をつぐみ
ひたすらに蝶でありえたことでのみ干からびていくのだ
音ひとつ ふるわせない
脱殻(ぬけがら)のまま

 

という詩だ。
この詩がわたしには一番分かりやすかった。

蝶が蛹から蝶になれずにそのまま乾いてしまう。だから飛ぶたびに自身が花粉のようにどんどん崩れていく、というイメージがまずある。蝶のようなふりをして飛翔してはいるが、蝶であることをすでに失った身であるのだから、舞いも装いもほんとうにはありはしないのだ。ただ舞っているふりをして揺れているだけだ。
「蝶でありえたことでのみ干からびていく」というのは難解だ。干からびたから見かけだけしか蝶でありえない、という話ではないのか?
化身というのが、朝鮮人が日本人に化けることという意味でもあるのか。であればうまく「蝶になった」日本人に化けおおせたことは、自身のルーツを失うことであり干からびることにつながる。しかし蝶に成れなければやはり、日本社会で生計を失い干からびていくことになろう。
冗談のようだが、在日を生きるとは存在の基礎的レベルでそのような、選択を強いられるがどちらを選んでも、「干からびる」といった体験であるのだ、と詩人は告げている。そうであることを、美しいイマージュとして展開している。
優れた詩だと思う。